太平記 現代語訳 3-3 後醍醐天皇、笠置寺を脱出

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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笠置寺においては、風によって東西から延焼の炎が上がり、ついに、御座所にも、火の粉を含んだ煙がかかりはじめ、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)にとって、危機的な状況となってきた。

やむなく、天皇はじめ、皇族、公卿ら、はだしのまま徒歩で、笠置寺を脱出。

寺からはなんとか脱出できたものの、行く先のあても無いまま、足に任せて逃げていく。

はじめ1、2町ほどは、皆で天皇をお助けしながら、前後にお供して行ったのではあったが、風雨は激しく道も暗く、そこかしこに湧き起こる六波羅軍のトキの声に惑わされ、一行は次第に、離ればなれになっていってしまった。

後醍醐天皇 みんないったい、どこへ行ってしもぉたんや、藤房と季房しか、おらんようになってしもたやないか。

まさに、天皇のお側ちかく、陛下の手を引いて進む者は、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)・季房(すえふさ)兄弟の他には皆無、という状態。

おそれ多くも、十善(じゅうぜん)の天子の地位にあらせられる天皇陛下が、田夫野人(でんぷやじん)の姿に身をやつされ、行く先のあても無く、さまよい歩かれるとは・・・あぁ、なんともはや、おいたわしい事である。

後醍醐天皇 (内心)ここはとにかく、なんとしてでも、夜が明けへんうちに、楠正成がたてこもっとる赤坂城(あかさかじょう)へ!

このように、気ばかりあせるのだが、陛下は生まれてこの方、長い距離を歩かれた事など一度もない。夢路をたどるような心地にて、一歩進んでは休み、二歩進んでは立ち止まり、といった状態である。

昼は、路傍の青草茂る墓地の陰に身を隠し、枯れ草を集めてしつらえた粗末なしとねに横たわる。夜は人も通らぬ野原の、露分け行く道にさ迷い歩く・・・薄絹のお衣の袖は、露と涙で乾くひまもなし。

3昼夜かかってようやく、山城国(やましろこく:京都府南部)・多賀郡(たがぐん:京都府・綴喜郡・井手町)の有王山(ありおうやま)の麓まで、たどりついた。

藤房も季房もこの3日間、何も食べていない。足は疲れ、疲労は極限に達している。

万里小路藤房 (内心)もぉあかん・・・体、動かへん。

万里小路季房 (内心)もぉどないなってもえぇわ、敵の手から逃れようという気力もナンも、尽き果ててもぉたわ。

山深い谷間の岩を枕に、夢か現(うつつ)か分からないような心地の中に、グッタリと横たわっているしかない3人であった。

松の梢を鳴らす風の音を、雨が降る音と聞き誤り、藤房は、

万里小路藤房 陛下、雨に濡れますから、さ、あちらの木陰に移りましょう。

木の下露がはらはらと袖にかかるのを、天皇はご覧になって、一首。

 さ(差=指)して行く 笠(=傘)置(ぎ)の山を 出(いで)しより あめ(雨=天)が下には  隠家(かくれが)もなし(原文のまま)

藤房は、涙をおさえながら返歌を詠む。

 いかにせん 憑(たの)む陰(かげ)とて 立ちよれば 猶(なお)袖濡らす 松の下露(したつゆ)(原文のまま)

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さてここに、山城国の住人・深須(みす)入道と松井蔵人(まついくろんど)という二人の者がいた。

彼らはそのあたりの地理をよく心得ていたので、山々峯々を残すところなく捜索、ついに天皇を見つけだしてしまった。

歩み寄ってくる彼らに対して、恐怖に圧倒されながら天皇は、

後醍醐天皇 あ、あんな、おまえらな、あんな、心あるモンやったらな、天皇のご恩を頂いてな、おまえら一家の繁栄を手にいれてみんかい? わしの側についてな、わしを助けぇ!

深須入道 (内心)うーん、そうかぁ・・・もしかしたら、これは、わしの家にとってはドえらいチャンスかもなぁ・・・。陛下を隠し奉って兵を起こしたら、わし、ソク、朝廷軍の大将やん!

深須入道 (内心)いやいや、そんなん、あかんあかん! わしの後ろにおる松井が、わしに同心してくれるかどうか、わからんし・・・こういう、「事漏れやすく道成り難し」な事を考えたら、身の破滅やな。

深須入道は、ただただ黙すばかり、まぁなんと、ふがいない事であろうか。

急な事ゆえ、陛下に乗って頂けるようなそれなりの輿も無い。仕方なく粗末な張輿(はりごし)にお乗せして、まず奈良の内山(うちやま)という所にお移し申し上げた。

市井の声A (涙)まあジツに、おいたわしいことですわ。

市井の声B (涙)古代中国、殷の湯(とう)王が夏台(かだい)に幽閉された時とか、越(えつ)王が会稽(かいけい)で敵の軍門に下った時の惨めな有様と、同じですわなぁ。

市井の声多数 (涙)ほんに、おいたわしいことどすなぁ。

この時、方々の地で、六波羅庁の囚われの身となった人々は以下の通りである。

 尊良親王(たかよししんのう)、宗良親王(むねよししんのう)、峰僧正・春雅(みねのそうじょうしゅんが)、東南院僧正・聖尋(とうなんいんのそうじょう・しょうじん)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ:藤房の父)、花山院師賢(かざんいんもろかた)、洞院公敏(とういんきんとし)、源具行(みなもとのともゆき)、藤原公明(ふじわらのきんあきら)、洞院実世(とういんさねよ)、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)、万里小路季房(までのこうじすえふさ)、平成輔(たいらのなりすけ)、二条為明(にじょうためあきら)、藤原行房(ふじわらのゆきふさ)、千種忠顕(ちぐさただあき)、源能定(みなもとのよしさだ)、藤原隆兼(ふじわらのたかかね)、妙法院執事・澄俊法印(みょうほういんのしつじ・ちょうしゅんほういん)。

上皇御所警備担当および諸家の侍の囚人、以下の通り。

 左衛門大夫・氏信(さえもんのたいふ・うじのぶ)、右兵衛大夫・有清(うひょうえのたいふ・ありきよ)、対馬兵衛・重定(つしまのひょうえ・しげさだ)、大夫将監・兼秋(たいふしょうげん・かねあき)、左近将監・宗秋(さこんしょうげん・むねあき)、雅楽兵衛尉・則秋(うたひょうえのじょう・のりあき)、大学助・長明(だいがくのすけ・ながあきら)、足助重範(あすけしげのり)、宮内丞・能行(くないのじょう・よしゆき)、大河原有重(おおかわらありしげ)。

奈良の寺院の衆徒で囚人となった者、以下の通り。

 俊増(しゅんぞう)、教密(きょうみつ)、行海(ぎょうかい)、円実(えんじつ)、宗光(みねみつ)、
定法(じょうほう)、慈願(じがん)、如円(じょえん)、浄円(じょうえん)。

延暦寺(えんりゃくじ)の衆徒で囚人となった者、以下の通り。

 定快(じょうかい)、浄運(じょううん)、実尊(じつそん)。

以上、合計61人。その家来や親族に至っては、とてもいちいち名前をあげることはできない。

あるいは籠輿(ろうよ)に乗せられ、あるいは伝馬(てんま)に乗せられ、白昼、京都へ護送されてくる。

囚人たちの縁者であろうか、街路には男女が立ち並び、彼らを見送りながら、あたりをはばかることもなく泣き悲しんでいる・・・まことに哀れとしかいう他はない。

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10月2日、六波羅北方長官・常葉範貞(とこはのりさだ)(注1)は、3,000余騎にて警護を固め、陛下を宇治・平等院(うじ・びょうどういん)へ、お移しした。

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(訳者注1)3-3中に記した、[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店] および [新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館] の注によれば、この時の六波羅庁北方長官は、[北条仲時]であり、[常葉範貞]ではない。
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その日、関東からの援軍の総大将・大仏貞直(おさらぎさだなお)と金澤貞将(かなざわさだまさ)は、京都へは入らずにそのまま宇治に直行、天皇にお目通りして次のように申し出た。

大仏貞直 まずは、三種神器(さんしゅのじんき:注2)を、こちらにお渡しいただけませんでしょうか。新帝陛下に(注3)に、お渡し申し上げたいので。

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(訳者注2)代々の天皇が継承してきた天皇家の3つの宝物。「内侍所(ないしどころ)(銅鏡)」「八坂勾玉(やさかのまがたま)」、、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」だと言われているのだが、確たるコメントは私にはできない。

(訳者注3)持明院統の光厳(こうごん)天皇。
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後醍醐天皇は、万里小路藤房を介して、次のように言わせられた。

万里小路藤房 陛下は以下のごとく、おおせや、

 「三種神器というものは、古来より、次の天皇が位を天から授かるまさにその時に、前の天皇から直接渡す、いうことになっておる。」

 「国中に威を振るう逆臣が現れ、しばらく天下を自らの手中に握る、という時でさえも、そやつが自分勝手に、次の天皇に三種神器を渡した、というようなことは、いまだかつて、聞いたことがない!」

 「内侍所、あれは笠置寺の本堂に置いてきた。今ごろは戦場の灰になっておるであろう。」

 「八坂勾玉(やさかのまがたま)は、山中で道に迷った際に、木の枝にひっかけて来た。ゆえに、あの地に鎮座しながら、今もなお、わが日本をお守りくださっていることであろう。」

 「草薙剣(くさなぎのつるぎ)だけは、わが手元にある。武家の輩(やから)が天罰をも顧みず、わが玉体(ぎょくたい)に近づこうものなら、そく、自らその刃の上に伏さんと思い、肌身離さず持っておる。断じて、渡さぬ!」

大仏貞直 ・・・。

金澤貞将 ・・・。

六波羅北方長官 ・・・。

幕府側全員、退出。

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翌日、陛下が乗られる車を用意して、宇治から六波羅庁へお移ししようとしたが、

後醍醐天皇 先例に則っての、天皇行幸のスタイルでないと、あかん! そうでないんやったら、ゼッタイに京都へは帰らん!

いたしかたなく、幕府側メンバーらは、屋根の上に鳳凰(ほうおう)を飾った輿を用意し、竜の柄の着物をしつらえる事となった。その間、10月3日まで天皇は平等院に逗留され、その後ようやく、六波羅庁へ移られた。

いつもの行幸の様子とはあい変わり、輿は数万の武士に囲まれ、公卿たちは粗末な駕籠、輿、伝馬で護送され、七条通りを東へ行き、鴨川の河原を北上して、六波羅庁へと向かう。

その行列を見て、人々みな涙を流し、それを聞く者、傷心の至り。

あぁ悲しきかな、昨日までは北極星のように、高貴なる紫宸殿(ししんでん)の玉座に座し、百官礼を尽くして、陛下にお仕えしていたというのに、今は茅ぶき屋根の下、関東の武士たちの捕虜。その束縛のあまりの厳しさに、心を悩ませたもう。

時は移り、事は去り、楽(たのしみ)尽きて、悲(かなしみ)来(きた)る。天人の五衰(てんじんのごすい:注4)、人間の一炊(いっすい:注5)、あぁ、この世は夢か幻か・・・。

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(訳者注4)天人(天上界の住人)の寿命の終わりにあたって現れる五つの兆候。

(訳者注5)穀物を炊いている短い間うたた寝していて、自分の一生の栄枯盛衰の夢を見たという中国の故事。
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六波羅庁に囚われの身となられた後醍醐天皇は、

後醍醐天皇 (内心)ここは六波羅、御所からそれほど遠い所ではない・・・。かつての御所での色々な出来事が、次から次へと思いだされるなぁ・・・。

軒から見上げる月の下を、時雨がザァッと通りすぎていくのを聞き、天皇は一首、

 住み慣れた 板屋(いたや)の軒(のき)に 時雨(しぐれ)降る 音を聞いても 泣けてくるなぁ

(原文)住み狎(な)れぬ 板屋の軒の 村時雨(むらしぐれ) 音を聞くにも 袖は濡れけり

4、5日後、中宮妃から天皇のもとへ、琵琶を送ってこられた。見ると、歌が添えられている。

 主(あるじ)無く 塵(ちり)のみ積もる 四本絃 払う間もなく 涙は落ちる

 (原文)思ひやれ 塵のみつもる 四(よつ)の絃(お)に(注6) 拂(はら)いもあへず かかる泪(なみだ)を

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(訳者注6)琵琶の絃は四本。
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陛下はすぐに返歌を。

 涙ゆえに 半ばの月は 隠れても キミと見た夜の 月忘れへんよ

 (原文)涙ゆえ 半ばの月は(注7) 陰(かく)るとも 共に見し夜の 影(かげ)は忘れじ

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(訳者注7)琵琶の腹には三日月形の模様がある。
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同月8日、六波羅庁・局長の高橋刑部左衛門(たかはしぎょうぶさえもん)と糟谷三郎宗秋(かすやさぶろうむねあき)が六波羅庁に赴き、笠置寺の戦で生け捕りとなった人々に対して、一人ずつ、その処分を決めていき、彼らは、有力御家人たちに預けられることとなった。

 尊良親王(たかよししんのう)は、佐々木時信(ささきときのぶ)に
 宗良親王(むねよししんのう)は、長井高廣(ながいたかひろ)に
 源具行(みなもとのともゆき)は、筑後前司貞知(ちくぜんのぜんじさだとも)に
 東南院僧正・聖尋(とうなんいんのそうじょう・しょうじん)は、常陸前司時朝(ひたちのぜんじときとも)に
 万里小路藤房(までのこうじふじふさ)と千種忠顕(ちぐさただあき)の二人だけは、陛下のお側近くにおるべし、ということで、禁固刑の体(てい)にて六波羅庁に留め置かれた。

同月9日、三種神器を、持明院統サイドの、光厳(こうごん)新天皇にお渡しすることとなった。

源具親(みなもとのともちか)、日野資名(ひのすけな)が、三種神器を受け取り、六条殿・長講堂(ろくじょうでん・ちょうこうどう)へ移送した。その警護は、長井蔵人(ながいくろうど)、水谷蔵人(みずたにくろうど)、但馬民部大夫(たじまのみんぶのたいふ)、佐々木清高(ささききよたか)が担当した。

同月13日、新天皇即位、光厳帝は、長講堂から御所へお移りになった。お供する諸公らは、花のように美しい行列を整え、随行の武士たちは甲冑を帯びて警護に当たった。

後醍醐先帝(せんてい)に仕えていた人々は、咎(とが)ある人も、無き人も、

後醍醐派の人C (内心)わしもそのうち、どないな目に逢う事やろか・・・。

後醍醐派の人D (内心)何を見ても何を聞いても、こわい・・・。自分の身が危ぶまれて。

一方、光厳新帝に仕える側の人々は、忠ある人も無き人も、

光厳派の人E イヤァー、我が身の栄華、今ここに開花ーっ!

光厳派の人F 何を見ても、楽しいやおへんか、何を聞いても心地よいやおへんか。

樹木が実をならせ、葉が陰をなすほど茂る一方で、花は枝から離れ、地上に落ちていく。

困窮(こんきゅう)と栄達(えいだつ)は、時を替え、栄誉(えいよ)と恥辱(ちじょく)は、道を分かつ。

まさにこの世は「はかなき憂(う)き世」とは、今にはじまった事ではないけれども、実にこの時ばかりは、いったい夢を見ているのやら醒めているのやら、さっぱり見極めがたいような、世のありさまである。

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