太平記 現代語訳 10-4 幕府軍、必死の鎌倉防衛

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「新田義貞(にったよしさだ)、数度の対幕府軍合戦に、勝利す!」との情報が関東一円に流れ、それを聞いた武士たちが続々と義貞の旗下に参集、倒幕勢力側の兵力は急膨張して、雲霞(うんか)のごとき大軍となった。

関戸(せきと:東京都・多摩市)に1日逗留して、諸国からの軍勢の到着を記録したところ、

新田義貞 ナニィー! 総勢60万7千余騎だとぉー?! ドッヒャァー!

脇屋義助(わきやよしすけ) やぁったねぇ、アニキィ!

討幕軍リーダー一同 やったぁ! やったぜぇ! イェーィ! ピィーピィー!

新田義貞 うーっ!

脇屋義助 さぁ、鎌倉(かまくら)、鎌倉ぁ!

新田義貞 よーし! じゃぁこれから、全軍の配置を言うからな、みんなよっく聞いといてくれよ!

討幕軍リーダー一同 おぅーい!

新田義貞 全軍を三つに分けてな、各軍には二人ずつ大将を任命して、指揮してもらうようにすっからな。

討幕軍リーダー一同 ・・・。

新田義貞 まずは、第1方面軍、大将、大館宗氏(おおたちむねうじ)、副将、江田行義(えだゆきよし)、総勢10万余騎。極楽寺坂切り通し(ごくらくじざかきりどおし:鎌倉市)へ向かえ!

第1方面軍のリーダー一同 オケーイ(OK)!

新田義貞 次、第2方面軍、大将は、堀口貞満(ほりぐちさだみつ)、副将は、大嶋守之(おおしまもりゆき)、総勢10万余騎。巨福呂坂(こぶろざか:鎌倉市)へ向かえ!

第2方面軍団のリーダー一同 まぁっかしときなってぇ!

新田義貞 最後は第3方面軍、こっちはおれと義助が指揮を執(と)る。堀口(ほりぐち)、山名(やまな)、岩松(いわまつ)、大井田(おおいだ)、桃井(もものい)、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)、額田(ぬかだ)、一井(いちのい)、羽川(はねかわ)以下、新田一族メンバーはおれたち二人の前後左右に布陣、総勢50万7千余騎、化粧坂(けはいざか:鎌倉市)めがけて押し寄せる!

討幕軍リーダー一同 イェーィ! ピィーピィー! ゴォウ(go)、ゴォゥ、ゴォーウ!

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鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)の人々は皆、「一昨日、昨日と、分陪河原(ぶばいがわら:東京都・府中市)と関戸で合戦があり、幕府側が敗北」と、聞いてはいたものの、「まぁ、大した敵ではないだろうさ、敵の人数だってしれてるんだろう」くらいにタカをくくって、のんびりと構えていたのであった。ところが、あにはからんや、

鎌倉の人A おいおい、大変な事になったよ! 反乱軍の討伐に向かってた大手方面軍の大将、北条泰家(ほうじょうやすいえ)殿が完敗しちゃったんだって! わずかの敗残兵とともにきのうの夜半、山内(やまのうち:鎌倉市)へ逃げ帰ってきたっていうよぉ!

鎌倉の人B からめての方も、メチャクチャになってるらしいぞぉ。利根川(とねがわ)方面に向かった金澤貞将(かなざわさだまさ)殿が、小山秀朝(おやまひでとも)と千葉貞胤(ちばさだたね)にボロ負けしちゃって、下道(しもみち)街道ぞいに、鎌倉へ退却中だってさ!

鎌倉の人C おいおい、ほんとうかい、それ!

鎌倉の人D こりゃぁ、思ってもみない展開になってきたなぁ。

鎌倉の人E まずいわよぉ、これって・・・。

そしてついに、5月18日午前6時、村岡(むらおか:神奈川県・藤沢市)、藤澤(ふじさわ:藤沢市)、片瀬(かたせ:藤沢市)、腰越(こしごえ:鎌倉市)、十間坂(じっけざか:神奈川県・茅ヶ崎市)等、50余か所に火の手が上がりはじめた。

いよいよ、倒幕軍側の鎌倉総攻撃が、三方面から一斉に開始されたのである。

武士は東西に馳せ違い、住民は貴賎を問わず山野に逃げ迷う。

鎌倉の人F 霓裳(げいしょう)一曲の歌声響きわたる中、

鎌倉の人G 唐(とう)の都・長安(ちょうあん)の城壁に、安禄山(あんろくざん)率いる反乱軍の進軍太鼓の音迫り、時の皇帝・玄宗(げんそう)の権力失墜(けんりょくしっつい)を見た、まさにあの時も、

鎌倉の人H あるいは、偽りの烽火(のろし)の末の異民族侵入の結果、周(しゅう)の幽王(ゆうおう)が滅亡した、まさにかの時も、

鎌倉の人F 今、我々の眼前に展開されているこの憂うべき状況と、まったく同様であったのかも・・・。(涙)

鎌倉の人G ただただ、涙が流れるばかり、涙を止めようがない・・・。(涙、涙)

鎌倉の人H あぁ、まったく、なんという事だ!

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「新田義貞の軍勢、三方から鎌倉に迫る!」との情報に、幕府側もそれに対抗して、相模高成(さがみたかなり)、城景氏(じょうかげうじ)、丹波時守(たんばときもり)を大将に任命し、軍勢を三方面に分けて守備を固めた。

そして、第1方面軍には、金澤越後左近将監(かなざわえちごさこんしょうげん)を副え、安房(あわ:千葉県南部)、上総(かずさ:千葉県中部)、下野(しもつけ:栃木県)の軍勢3万余騎で、化粧坂を堅めさせた。

第2方面軍には、大仏貞直(おさらぎさだなお)を副え、甲斐(かい:山梨県)、信濃(しなの:長野県)、伊豆(いず:静岡県東部)、駿河(するが:静岡県中部)の軍勢5万余騎で、極楽寺坂切り通しを堅めさせた。

第3方面軍には、赤橋守時(あかはしもりとき)を副え、武蔵(むさし)、相模(さがみ)、出羽(でわ:東北地方西部)、陸奥(むつ:東北地方東部)の軍勢6万余騎で、洲崎(すさき:鎌倉市)方面の敵に当たらせた。

その他にも、北条家の支族80余人、諸国の武士10万余騎を予備軍、すなわち、危うくなってきた方面へ向かわせようということで、鎌倉内に留めた。

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5月18日午前10時、戦闘開始。その後、終日終夜の激しい攻防を展開。

倒幕軍サイドは、大兵力にものをいわせ、部隊を入れ替え取り替えしては攻撃をしかける。幕府軍サイドは、守備に絶好の難所を防衛拠点としてかため、そこからうって出てうって出て、相手側の鎌倉侵入を防ぎ止める。

鎌倉の三方に続々とあがるトキの声、自分の放った矢が相手に命中した時の歓声が、天を響かせ地を揺るがす。魚鱗陣形(ぎょりんじんけい)に攻めかかり、鶴翼陣形(かくよくじんけい)に開き受け、前後に当たり、左右を支える。

義を重んじては命を軽んじ、自らの安否をこの戦闘の一時に決する・・・まさにこの合戦こそは、わが勇気の有無を末代にまで示す時。

たとえ我が子が討たれようとも、親はそれを助けずに、子供の屍(しかばね)を乗り越えて、前なる敵に当たらんとする。たとえ我が主が射落とされようとも、郎等(ろうどう)は彼を引き起こそうともせずに、主の馬にヒラリとまたがり、ただただひたすら前へ前へ、あるいは敵と引き組んで、勝負を決せんとする者もあり、あるいは敵との相打ちの中に、共に死にゆく者もあり。この猛卒(もうそつ)たちの気力を見るに、万人死して一人が残り、百陣破れて一陣になるとも、いったいいつになったら戦が終わるのか、全くもって想像することすら不可能である。

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