太平記 現代語訳 1-5 後醍醐天皇の皇子たち


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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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蝗(いなご)は群れて、多くの子を産むとか・・・皇后の他にも、天皇の寵愛を受けた官女の数はなはだ多く、皇子(みこ)は次々とご誕生、その数ついには16人。

中でも一番目の皇子・尊良親王(たかよししんのう)。この方は、大納言・御子左為世(みこひだりのためよ)の娘・為子(ためこ)殿よりお生まれの方。ご生誕の後、内大臣(ないだいじん)・吉田定房(よしださだふさ)が養い育てた。一般に学問に志し始める15歳にしてすでに、詩歌の道にすぐれた才能を見せ、富緒河(とみのおがわ)の清き流れを汲み、浅香山(あさかやま)の旧跡を踏み、風のそよぎに、月の輝きに、心感じて詩を詠み、といった感じである。

二番目の皇子・宗良親王(むねよししんのう)も、母親は同じく為子殿である。児童の時より妙法院(みょうほういん:東山区)に入り、釈尊(しゃくそん)の教えの道にいそしまれる事となった。この方もまた、仏道の修行の合間には、歌道や風流の道にいそしまれた。かくして、伝教大師(でんぎょうだいし:注1)の旧業にも恥じず、慈鎮和尚(じちんおしょう:注2)の風雅をも超えて、ともいうべきお方になられた。

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(訳者注1)天台宗の総本山・比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の開祖・最澄(さいちょう)のこと。

(訳者注2)天台座主・大僧正(てんだいざす・だいそうじょう)であった慈円(じえん)のおくり名(没後につける名前)。慈円は鎌倉時代の代表的歌人でもあった。百人一首にも、「おほけなく うき世の民に おほふかな わがたつそまに 墨染の袖」の歌がある。
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三番目の皇子・護良親王(もりよししんのう)は、民部卿(みんぶきょう)三位殿(さんみどの)よりお生まれの方。幼い頃より利発聡明であったので、陛下は、「次の天皇位はこの子に」との思いを抱いておられた。

しかしここに、歴代続いてきた一つの約束事があった。後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)の時より、「天皇位には、[大覚寺統(だいかくじとう)]の家系と、[持明院統(じみょういんとう)]の家系とで、かわるがわる就任していく(注3)」と定められていた。それゆえに、次の天皇となる人、すなわち、皇太子には、[持明院統]サイドの人が立てられてしまったのである。(注4)

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(訳者注3)天皇家でも一般の家と同様、複数の子供が生まれる可能性があるゆえに、複数の「家系」がそこから生じていく。この2つの家系([大覚寺統]と[持明院統])から交互に天皇位に就任していく、という原則の事を歴史関係の書物では、[皇統(こうとう)の迭立(てつりつ)]とか、[両統(りょうとう)の迭立(てつりつ)]といった用語で表現しているようである。これについては、本章末の注にもう少し詳しく書いた(写真つき)ので、ご参照いただきたい。

(訳者注4)「[持明院統]サイドの人」とは、量仁親王、後の光厳天皇である。後醍醐天皇は、[大覚寺統]に所属していた。「皇太子」の位にある人が次の天皇になるのだから、誰がこれに選ばれるかは重大な事である。なお、この件に関しては、本章末の注をご参照いただきたい。
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国家の政治に関する事は、何事も関東(鎌倉幕府)が決定、天皇のご意向がそれを左右する可能性は一切無し、というのが当時の情勢であったからして、後醍醐天皇としてもいたしかたない。予定を変更し、この皇子に対する元服の義を行わずに、比叡山・延暦寺の梨本円融房(なしもとえんゆうぼう)にお入れになり、承鎮(じょうちん)親王の門弟とされた。

その寺におけるこの皇子の様子はといえば、

延暦寺僧A 一を聞いて十を悟られる、あのご器量は、世にも類(たぐい)まれなるものにして、

延暦寺僧B 真理を把握し、速やかに仏智を得られる、その功徳の花の匂いは、

延暦寺僧C わが比叡の全山に、風に乗って広がっていく

延暦寺僧D 仏の三つの教えが実は不可分にして 一体のものであることを、

延暦寺僧E 明らかに解き明かされる その明晰な理知の輝きは、

延暦寺僧E 冴え渡る月光のように わが延暦寺の上にふりそそぐ

延暦寺僧F いやぁもうほんまに、ありがたい事やないかいなぁ。

延暦寺僧G 消えなんとする法灯をかかげ、

延暦寺僧H 絶えなんとする仏法の命脈を続かしむるのは、

延暦寺僧全員 わがみ寺に、親王殿下をお迎えした、いままさにこの時。

延暦寺の僧全員 (掌をあわせて)あぁ、ありがたや、ありがたや。

このように、比叡山のすべての僧侶たちはこぞって、この親王を仰ぎ奉ったのであった。

四番目の皇子・静尊法親王(せいそんほっしんのう)も、三番目の皇子と母が同じ。こちらのお方は、聖護院(京都市左京区)の二品親王(しょうごいんにほんしんのう)に、弟子としてつけられた。法水(ほっすい)を三井(みい)(注5)の流れに汲み、弥勒菩薩(みろくぼさつ)出現の暁には、我もまた悟りを開いてブッダ(仏陀)とならんと、仏道修行に日夜励まれる。

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(訳者注5)三井寺、すなわち、園城寺(おんじょうじ:滋賀県大津市)。
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この他にも、多くの皇子や皇族に恵まれ、皇室、後宮も整った。

これはどうやら、朝廷が政権を取り戻し、それを末永く保持し、という方向に運がめぐってきたその前兆と、言ってよいのかも。

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訳者注:[持明院統]と[大覚寺統]

後嵯峨天皇の後、後深草天皇、亀山天皇(二人は兄弟)があいついで、天皇位についた。後深草天皇は譲位の後、持明院に、亀山天皇は譲位の後、大覚寺に入られた。これにより、それぞれの子孫を、[持明院統]、[大覚寺統]と呼ぶ。

京都市内の新町通りと上立売通りとの交差点の付近、[光照院]という寺院の前に、[持明院]がそこにあった事を示す石碑が立っている。

新町通りと上立売通りとの交差点から更に西に一筋、新町通りと平行に南北方向に走る道があり、そこを北上した所である。

[大覚寺]は、京都市・右京区の嵯峨野に現存しており、桜や紅葉の名所である。

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訳者注:皇太子の選出について

皇太子、すなわち、「後醍醐天皇の次に天皇になるであろう人」の選出については以下のような紆余曲折がある。[後醍醐天皇 森茂暁著 中公新書1521 中央公論社]によれば、以下のごとくである。

文保2年(1318) 後醍醐天皇、天皇位に就任、これと同時に、邦良親王が皇太子位に就任。後醍醐天皇も邦良親王も共に[大覚寺統]であるから、ここで[両統迭立]の原則が破られている。

嘉暦元年(1326) 邦良親王、死去。量仁親王が皇太子位に就任。量仁親王は[持明院統]に所属、後に天皇位に就任(光厳天皇)。ここで再び、[両統迭立]の原則が適用される形となった。

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