太平記 現代語訳 20-12 吉野朝廷、奥州に拠点確立を図る

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷・重臣A 北畠顕家(きたばたけあきいえ)は阿倍野(あべの:大阪府・大阪市・阿倍野区)で戦死するわ、春日少将(かすがのしょうしょう)の守る八幡(京都府・八幡市)も落とされてしまうわで・・・もう、ガックリくるような事ばっかしですわぁ。

吉野朝廷・重臣B ほんま、最近えぇことおへんなぁ。毎日、落ち込んでばっかしですぅ。

吉野朝廷・重臣C いやいや、まだ望みはありますやんかぁ、新田義貞(にったよしさだ)が、「そのうち北陸から京都に攻め上りますから」て、言うてきとりますやん。

吉野朝廷・重臣D ほんま早いとこ、新田に京都を奪回してほしい。待ち遠しいですわ。

ところが、その頼みの綱の新田義貞も足羽(あすは:福井県・福井市)で討たれてしまった、との報に、天皇以下、みな色を失ってしまった。まさに、蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん:注1)が諸葛孔明(しょかつこうめい)を失い、唐の太宗(たいそう)が魏徴(ぎちょう)の死を歎き悲しんだがごとくである。

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(訳者注1)劉備の子供。父の後を継承して蜀王となった。
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このような中に、奥州(おうしゅう:東北地方東部)の住人・結城道忠(ゆうきみちただ)が天皇のもとに参内して、ある提案を行った。

結城道忠 奥州国司・北畠顕家卿が、3年の内に2度までも大軍を動かして上洛されました間は、出羽(でわ:東北地方西部)、奥州両国の武士たちはみな、北畠卿に従い、足利サイドが東北地方に手を伸ばす隙を、全く与えませんでした。

後醍醐天皇 ・・・。

結城道忠 あちらの国人たちが心変わりしない今のうちに、陛下、なにとぞ、親王様をお一人、東北地方に派遣下さいませ。その上で、忠功ある者には、親王様から直接に褒賞を与えられ、不忠の輩たちの根を切り葉を枯らすように処置して下さいましたなら、東北地方全域を陛下の支配下におさめることができましょう。

後醍醐天皇 ・・・。

結城道忠 わが国の地図を見れば分かりますように、奥州54郡の面積合計は、およそ日本の半分にも及びます。あの地方の勢力を残らずこちらになびかせる事ができましたならば、4、50万騎もの大兵力が、我が方のものとなりましょう。

結城道忠 私、道忠、親王様をお守りして、奥州へ参りとうございます。その後、老年の首(こうべ)に兜をかぶって再び京都に攻め上り、1年の間に、これまでの雪辱を成しとげてみせましょう!

後醍醐天皇 よぉ言うた!

吉野朝廷・重臣A なるほど、これは良きアイデアですわなぁ。

吉野朝廷・重臣B そうやぁ、まだ奥州があったんやぁ。

後醍醐天皇 よかろう、それ、さっそく実行に移せぇ!

というわけで、今年7歳になった後醍醐天皇の第8皇子・義良(よりよし)親王に、元服の儀を行い、春日少将をその輔弼(ほひつ)の臣に任じ、結城道忠を衛門尉(えもんのじょう)に任命し、ともに奥州へ向かわせた。

さらに、新田義興(にったよしおき)と北条時行(ほうじょうときゆき)の二人に対して、「関東八か国を平らげて、義良親王を援助せよ」との命を与え、武蔵と相模へ派遣した。

足利サイドの力が方々に及んでいるので、陸を経由しての奥州行きは困難、というわけで、海路を行くことになり、全員、伊勢(いせ:三重県中部)の大湊(おおみなと:三重県・伊勢市)に集まり、船を揃えて良風を待った。

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9月12日の宵頃から、風は止み雲も収まり、海上が穏やかになってきたので、船員たちは艫綱(ともづな)を解き、船団は万里の雲に帆を飛ばし始めた。

軍船500余隻、親王の乗る御座船を中央に囲み、遠江(とおとうみ)の天龍灘(てんりゅうなだ)を通過の際(注2)、海風にわかに吹き荒れて、逆巻く波は天をも巻返す。帆柱を折られ、舳先に張った帆でかろうじて航行可能な船もあり、舵をかき折られて渦に漂う船もあり。

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(訳者注2)強風に遭遇した場所については、この船団に搭乗した北畠親房(きたばたけちかふさ)が著した「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」の記述との間に、違いがあるらしい。
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日没後、ますます風は強まり、風向が様々に変わった。船団は、まちまちの方向に散乱してしまった。伊豆大島(いずおおしま)、女良湊(めらみなと:千葉県・館山市)、神奈川湊(かながわみなと:神奈川県・横浜市)、三浦半島(みうらはんとう:神奈川県)、由比が浜(ゆいがはま:神奈川県・鎌倉市)等、津々浦々の湊に、船は吹き寄せられていった。

親王が乗っている船は他の船から離れてしまい、満々たる大洋上を吹き流されていった。今にも船が転覆してしまうかと思われたまさにその時、光明赫奕(かくえき)たる太陽(注3)が船の舳先に現れるやいなや、風向きはにわかに変わり、船は伊勢の神風浜(場所不明)へ吹き戻された。

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(訳者注3)原文では、「日輪」。
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船団中の多くの船が行くえ知れずになってしまった中に、この船だけが、太陽神の擁護によって伊勢へ吹き戻された事には、実に深い意味が込められている。これはきっと、この親王がやがては天皇の位を継がれる運命にあることを、もったいなくも天照大神(あまてらすおおみかみ)が示現され、奥州への下向を止められ、すぐに吉野へ返されたのにちがいない。(注4)

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(訳者注4)太平記作者はここで、「太陽」、「天照大神」、「伊勢(天照大神が祭られている伊勢神宮がある)」というキーワードを提示することにより、義良親王が「次の天皇位につくべく選ばれた人」であることを強調したいのだろう。
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はたして、後醍醐天皇の崩御(ほうぎょ)の後、吉野朝廷の天皇位を継承されて「吉野の新帝」と呼ばれるようになる方こそ、まさにこの、義良親王殿下に他ならない。(注5)

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(訳者注5)後村上天皇。
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