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英語との未練がましい関係とダサい僕

約2年ぐらい前からオンライン英会話を続けている。

受験のための英語の勉強はあまり好きではなかったため、大学入学とともに英語学習はほぼしなくなった。
「ほぼ」しなくなったというのは、頭の中に漠然と「英語は大事だよな」という考えがあって、その後もたまに英単語帳を開いたり、英語学習系のYouTubeチャンネルを見たり、突然TOEICを受けたりと惰性で英語との付き合いを続けていた。

仕事でも英語は最低限必要ではあるが、日本で働いている僕にとっては論文を読んだり、書いたりする目的が殆どであり、そこまで高度な技術は必要ない。
技術の進歩著しい昨今では、翻訳ソフトと英文公正さえあれば論文作成において英語の技術など正直必要ないに等しい気もしてる。

それでも英語との関係を惰性で続けていたのは、僕の中に「英語が話せない」というコンプレックスがあったからだろう。
海外旅行に行った時、発表で海外に行った時、僕は自分の英会話スキルのなさに何度も絶望してきた。
その自分のダサさを自分で許せずに、英語ときっぱり別れを告げられず、未練がましく浅はかな関係を長年続けていた。

2年前に単身赴任をすることになった。
家族と過ごす時間が減ることは寂しかったが、どうせならその時間を有効利用しようと考え、英語との関係に決着をつけることとした。
今まで真剣に向き合ってこなかった英語と向き合い、「I’m fine, thank you」一択の返しから脱却することを決意した。

今の時代は素晴らしい。
英会話スクールに通えないことを忙しさのせいにしていた僕に、もう言い訳さえもさせてくれない。
少しの時間とスマホさえあれば、どこにいても外国人と英語のレッスンを受けられる。

レッスンを始めた当初は自分の話せなさに愕然とした。
言いたいことが全く言葉として出てこない。
自分のダサさとの真正面からの取っ組み合いに心が耐えられず、レッスン回数も中々増やすことができなかった。

それでもへこたれそうな自分のケツを蹴り上げ、レッスンは続けた。
ダサい自分と相撲を取り続けた。
すると徐々にではあるが、レッスンを受けることが苦ではなくなってきた。

それはうまく文章として話せないことでも、「どうにか伝えよう」ともがけるようになったことが大きいと思う。
以前は正確な単語を用いて、完璧な文法でなければ「話せない」「自分はダサい」と考えてしまい言葉を口から出せなかったが、今では「うまい表現は知らないけれど、これとこれでどうにか言いたいことは伝わるだろ」と「伝える」ことに重きをおけるようになった。
こちらが一生懸命伝えようと試みれば、何とか意味を汲んでくれて相手に伝わるのだ。

「とりあえずオンライン英会話を始めれば勢いで何とかなるぜ!」などと言いたいわけではない。
僕もきちんとした英語を話せるようになるために、レッスン中に言いたかったけど言葉にできなかったフレーズをレッスン後に調べてメモったり、日常生活でも「今の出来事を英語だったらどう表現できるだろう」とその場で考えたり調べたりすることを続けている。
ただ、「きちんとした英語を話せない自分」より「伝えようとしない自分」の方が「ダサい」ということに気づけたことが僕の1番の収穫だ。

付かず離れずの関係を長年続けてきた英語とも、最近では手を繋ぎながら散歩しているような感覚がある。
まだまだ不器用な繋ぎ方で、変に力が入った自分の歩き方に自分でも笑える時があるが、横の英語がそこまで嫌な顔をしていなそうなのでもう暫くこの道を歩き続けてみようと思っている。

#英語
#英会話