学びと勉強と学校

 3月から休校になっている。COVID19の対応として、全国一律に休校が要請されたためだ。今回の動きの中で、従来の学校教育の課題が明らかになったことがあると感じる。一つは、日本の学校教育で最優先されていることは“学び”ではないこと。もう一つは、子どもの学習権が保障されていないことだ。

①公教育で大切にされているもの

 大切なものは“学び”ではないということ。木曜日の夕方に要請が出て、翌週の月曜日から休校になる。子どもたちへの学習の準備をさせる間も無く、なし崩し的に休みになった。

 休校が続いているにも関わらず、卒業式と入学式はやるという方針。一人一人の“学び”より、節目や区切りなどが大切にされている。感染者が増加傾向になる中、出席に必要な日ではないとしながらも、式だけは行う。危機的な雰囲気は醸し出されていても、紅白幕で囲まれた晴れの雰囲気はそのまま。入学式に関しては、音楽で歌うことがリスクとされているなかで、国歌斉唱をしようとする自治体すらあった。(はじめからやらないと決めたところもあるし、新聞報道により取りやめたところもある)感染のリスクよりも「式典」の形が優先されている。

 国旗国歌が法制化されてから、全国一律で同じような式が行われるようになっていた。ここ20年の流れの中、【国の型】というものが全国にはびこっていた。危機的状況の中で、その型が個人の学びよりも優先されていることが明確に見えてしまった。

②学習権の不在

 子どもは休校になると生き生きしている。好きなようにテレビ(スマホ)を見て、命令されることもない。友達と外に出歩くこともできる。3月中はそんなゆるい空気が流れていた。(もちろん、友達に会えない寂しさや自由に動けない苛立ちを抱えている子どもも多くいた。)

 そんな中でも、学力差を心配する声が時々ネット上に上がっていた。確かに、課題だけ渡されてもそれを自分でやることのできる子どもは決して多くはないだろう。むしろ、保護者からいつも以上に勉強へのプレッシャーを受けて、家が居心地の悪いものになってしまうことがあるのかもしれない。実際にうまくいくかは別として、家庭学習のあり方がよく議論になっていた。結果としての学力が話題になる一方で、大切なものが忘れ去られている。それは子どもの学習権だ。

 知りたいことを追求したり、可能性を広げるために学んだりする学習権を保障できるようにする必要がある。しかし、ここで気をつけなければいけないのは「知識をつけさせること」や「将来のためと勉強させること」は学習権とは全く関係ないということだ。学校の勉強というと、このような観点が非常に強いが、学習権を考えた時にはむしろ権利侵害の要因になってしまうことすらある。

 学校に行かなくても学ぶことのできる環境整備が喫緊の課題だと感じる。そのために、予約の受け取りを含めた図書館の開放(郵送サービスを取り入れても良い)や誰もがインターネットにアクセスできるようなタブレット端末(とLTE接続)の貸与など、家にいながらも学びを拡げることのできる方法を考える必要があると感じる。

 もちろん、それを用意しても何もしない子どもはいるだろう。しかし、長期的に対応することが予想されるからこそ、学習権を保障するという観点のみでシンプルに考えて、評価や学力は別の枠組みで考えてはいかがだろう。

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