子どもの権利と学校の権力

 【権利】一定の利益を請求し、主張し、享受することができる法律上正当に認められた力をいう。相手方に対して作為又は不作為を求めることができる権能であり、相手方はこれに対応する義務を負う。権利は法によって認められ、法によって制限される。私法関係で認められる権利としては、物権、債権、親権などがあり、公法関係で認められる権利としては、刑罰権等の国家的公権と、選挙権等の参政権、訴権等の受益権、自由権などの個人的公権とがある。[有斐閣 法律用語辞典 第4版]

1. そもそも権利とは

 狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会。長い年月を経て、人々を取り巻く社会の構造が変わってきている。狩猟社会は、動物的な世界であり、弱肉強食・適者生存の社会という面が強くあった。技術や文化が時代とともに変化してきたように、人間に対する見方も変化してきた。少し前までは、身分制度や人身売買が当然とされる社会だった。

 しかし、市井の人々の抵抗や社会科学の進歩とともに、一つの到達点にたどり着いた。天賦の人権。人は生まれながらにして自由・平等であり、幸福を追求する権利があるという思想である。18世紀に生み出された考えではあるが、そこに含まれる“人”という概念は、時代とともに変化してきている。

 日本でも、女性に選挙権が与えられたのは戦後。戦前は、男性と同等の権利を有するとは考えられていなかったのだ。第二次大戦の後、世界では様々な人権を保障されていなかった人々が“発見”されてきている。戦後“発見”された“人”は、女性(1979年)、子ども(1989年)、障害者(2006年)などがある。あえて“発見”としているのは、その年に国連で人権条約が採択されているからだ。

 なぜあえて人権条約を作る必要があったのだろうか。それは、条約で規定しないと、自由や平等が保障されていなかったからだ。(今でも、陰に陽に保障されていない現状はある)

2. 権利と義務と学校

 今回は教育を受ける権利について考えたい。

 教育は自由・平等を獲得するための一つの権利だ。義務教育という言葉で、教育を受ける義務だと勘違いしている人も時々いるが、義務は保護者や行政の側にあり、子どもは教育を受ける権利を有している。そのことはしつこくとも何度も確認する必要がある。

 というのは、「子どものため」とか「学校の規律のため」と自由を抑制する規則やきまりがたくさんある。最近話題になった“ブラック校則”はその典型的な例だ。また、ここ数年全国を席巻してしまっている“学校スタンダード”も同じである。学習権を保障するためと言いながら、そのために一方的に自由を制限している。確かに集団で生活するためにはある一定の決まりごとは必要になる場面もある。しかし、子どもの権利について考えることなく、“正しいこと”として無批判に校則やスタンダードを設定していることに危機感を覚えてしまう。

 小学校では、2018年に道徳が教科化された(中学校は2019年から)。教科書の中で、義務と権利を対概念として扱っている。しかも、単なる対概念というより、義務を果たすから、権利を主張することができるという文脈で扱われている。権利よりも、義務を果たすことが優先されるというのだ。以前より、「最近は権利ばかり主張して、義務を果たしていない」などという人はいたが、教科の道徳では学ぶ内容に、権利について誤った認識を与えるようになってしまっている。

3. 評価することの暴力性

 道徳が教科化されたことだけが問題なのではない。以前より、通知表に「生活の記録」などで行動に対する評価(例:友達と仲良くできる)は行われてきた。また、国語や算数などの教科において「関心・意欲・態度」(今年度からは「主体的に学習に取り組む態度」)がなされてきた。どのように学ぶかということすら、評価対象になっているのだ。

 評価をするという行為自体に権力性や強制性を含んでしまっている。漢字を書けるやグラフが読み取れるといったことは、できたかどうかはある程度評価可能だろう。しかし、態度はどうだろう。もちろん、挙手の回数を数えてなどという単純なことではないことはわかる。しかし、新学習指導要領でいう“主体的”に学習に取り組むというのを評価することは不可能に近いと感じる。

 人の行動は周りの環境に左右される。意欲的に学習するためには、日常の生活環境の安定が不可欠となる。家庭や友人関係、経済的な余裕や争いがないことなど、種々の条件が整っている必要がある。また、教員との関係性によっても大きく左右される。「学校の先生が嫌いでサボっていた」という経験がある人は、結構いると思う。それを、“主体的”ではないと評価してしまうことに一体なんの意味があるのだろう。むしろ、評価されるために“忖度”しようとする子どもが出てしまうのではとすら思う。

 特に、大人と子どもでは、肉体的にも経済的にも、大きな差がある。意図しなくても、子どもにとって大人は権力を帯びてしまう存在だ。特に“先生”は、日常の中で子どもの言動を統制してしまいがちである、よい“先生”でも権力性を帯びてしまっている。

 そんな意識・無意識の権力関係の中で行われる評価には、恣意性や暴力性が潜んでいる。評価する側が、自らの権力性に危うさを感じていれば良いが、運動会の組体操のように、自分の指導によって統率できたことに喜びを感じてしまいがちである。昨今では(昔から?)、権力性のある統率技術をもっている教員を、“指導力”があると褒めそやす傾向がある。

 大人の関係性の中で認められる方向で、子どもたちに関わっていく。“指導力”が求められる中で、子どもたちを管理・統制しようとする動きは強くなる。「そんなことはない、子どもたちの主体性を生かしている」という人もいるだろうが、個人としての抵抗をいくら重ねても、抑圧構造にメスを入れない限りは、根本的には無力の抵抗にしかならないだろう。


 子どもたちを管理・統制する動きは、特別支援教育と親和性が非常に高い。統制に従わない子どもを“支援が必要”“困り感がある”などとレッテルを貼っている。統制できないことの言い逃れとして、子どもを利用しているとも言える。特別支援教育についての問題点は別項で考えてみたい。


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