1500mはスピード?いいえ、違います

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 実際私も3月の3000m8分56秒、4月の5000m15分22秒の後、平井先生の話を聞いてからだいぶ走れるようになってきており、先日の2000m+1000mを5分44秒と2分43秒、5分45秒で余裕をもって、1000mは2分45秒というイメージ通りの練習をこなすことが出来、3000m8分30秒に向けてだいぶ現実味が出てきました。また、同じ話を聞いていた弊社副社長のティラノ(人気ユーチューブチャンネル「ティラノのランラボチャンネル」支配人)も3000m9分48秒と8年間のブランクの後の社会人ベストを大幅に更新しました。


 それはさておき、その対談の中でラストスパートに話が及び「僕の友人の桜井君がね、ラストスパートは○○だって言ってたんですよ」という話が出て、「おっ懐かしい名前が出たな!」と思いました。桜井(櫻井)というのは西京高校から京都大学に行き、京都大学時代はインカレチャンピオンにも輝いた中距離の名選手です。

 高校時代の桜井は中距離が速くて、マイルリレーでも活躍するほどのスピードの持ち主でしたが、駅伝の10キロなどはからっきしダメでした。一方の私はと言えば、高校一年生から全国高校駅伝4区(8.0875km 24:19 区間12位)の9人抜きをするなど、初めっから長距離部隊で、自分が中距離をやるとも思っていなかったし、やりたいとも思っていませんでした。


 ところが、高校3年生になって私にお鉢が回ってくるという事件が起きたのです。その年の洛南高校陸上部長距離パートは非常に弱く、先生も若干苛立たれていたと思いますが、やってる我々にもフラストレーションがたまる年でした。競歩では日本ユースで後藤秀人が優勝したり、インターハイ、国体では浦田楓馬が入賞したり、活躍する選手がいましたが、それ以外にはまともな選手がまるでおらず、私を含めて忸怩たる思いをしていました。


 例年であれば、市内インターハイなど出る必要もなく、ほとんどシードで京都府インターハイへの出場権を獲得しており、市内インターハイはメンバーに選ばれるか選ばれないかの瀬戸際にいる選手への最後のチャンスと言った意味合いが強いのですが、その年は市内インターハイで京都府インターハイへの出場権を獲得しないといけない選手が何人かいました。


 ところが、1500mに出場する選手がなかなか決まりません。キャプテン、副キャプテン、プレーイングマネジャーが当時の顧問の中島道雄先生のところに候補選手を紙に書いて持っていくも、イマイチ決め手にかけて最後の一人がなかなか決まりません。そこで、中島先生が突然ひらめいたように言ったのが「池上は?」、とりあえず全員「なしではない」みたいな雰囲気になって私にお鉢が回ってきたのですが、私としてはチャンスはチャンスです。やってみたいに決まってます。


 実は私、体育のスポーツテスト以外で人生で初めて1500mを走ったのがこの年の4月で、4分14秒でした。タイムが悪いのもあって、もう自分に出番はないと思っていたのですが、まあ、先生のひらめきみたいものもあったのでしょう。僅か4週間後のこの試合で4分01秒で無事に予選を突破し、ライバルの不調や故障もあって無事に京都府インターハイのメンバーに選ばれました。


 ところが、京都府インターハイでも弱かった私たちには事件が起こります。エースの太田翔が終始先頭を走って、後ろを見ないままにゴール手前で流して、予選落ちという大事件が起きました。あの時の中島先生の怒りはすさまじく、エントリーしていた5000mにも出さないと凄まじい剣幕でした(結局何とか出してもらって2位)。


 一方の私はと言えば、スピードにはやはり自信がなかったので、スローペースになって本来1500mを走り切る力のない選手が最後のスプリントだけで勝負を仕掛けてくるのだけは避けたかったのです。そこで、スタートから先頭に立ち、早めに振り落とそうと思いました。ところが、スタートしても体が動きません。ペースを上げようと思っても400m66秒から抜け出せず、結果的に最高のペースメーカーになってしまいました。


 洛南高校陸上競技部には付き添い制度というのがあり、インターハイ路線ではメンバーに入れなかった選手がメンバーに入った選手の付き添いをするのですが、その時の私の付き添いはティラノです。鐘が鳴った時にサインで集団の人数を教えてほしいと伝えていました。ちなみに、この時混乱が生じないように、予め入念にサインの打ち合わせをしていましたが、鐘が鳴った時に集団の人数が二桁になることを想定していませんでした。ティラノを見てもなかなかサインが出ません。体が動かないことにも苛立っていた私は「サッサっと出せや」と更に苛立っていました。ほんの数秒の出来事がとても長く感じられたのち、出された数字は打ち合わせにはない「12」、それを見た瞬間心の中で「ごめん、それは俺が悪いわ」とティラノに謝りながら、もう死ぬ気でスパートをかけました。京都で落ちるだけでも犯罪やのに、その予選で落ちることだけは絶対に避けたいという気持ちでスパートをかけたところ、何とかコンマ差で予選は突破しました。


 とはいえ、これは本来なら決勝の為の「当日刺激」みたいなもので、これから本番が始まる訳です。私が1年生、2年生の頃の京都府インターハイと言えば、洛南生が初めからレースを牛耳り、先頭で交代でペースを作って、1,2,3位を独占する、それが出来ないと、3番までに入れなかった選手が若干気まずくなるみたいな雰囲気でしたが、この年はとてもそんな雰囲気ではなく、中島先生からは「決勝では絶対に前に出るな」という指示が出ました。


 キャプテンの今井と私で決勝に向かうと二人とも前に出ません。洛南生が前に出ない京都府インターハイは珍しく、他校の選手も誰も前に出ないままに超スローペースとなり、1000mの通過は2分54秒でした。佐藤圭汰君が聞いたら、目ン玉飛び出すんじゃないかと思いますが、我々はそんなレースでした。ちなみにそれをみて洛南生は全員「池上、終わった」と思ったらしいです。スパート合戦になったら池上に勝ち目はないと。実際、私もそう思いましたが、半分以上予選で落ちていた私は腹がすわっていました。「どうせ落ちるんやったら、ジタバタせずに一発自分の本気を見せつけて終わろう」とそう思いました。


 その結果、どうなったかと言うと、余計な動きを一切しなかったのです。他の選手はスローペースで余計な動きがありました。極端なスローペースになると「前には出たくないけど、誰かがペースを上げるだろうから、その時に遅れたくない」という心理が働き、集団の前方で小競り合いが起きました。この時もそうなっていました。前に出たり、下がったり、外に出たり、ブロックされたり、そんな中で私は「どうせ落ちるんやから一緒や」と思って、集団後方の内側をずっとキープしていました。


 中島先生からはラスト300mまで絶対に出るなと言われていましたが、さすがにそれでは負けると思った私はラスト400mに賭けました。そして、ラスト400mの時点で先頭にいたかったので、ラスト500mから動きました。まさに自分の中では乾坤一擲、これ以上ない集中力で勝負に出ました。誰もが予想したとおり、この展開になった時点で著しくスピードよりの桜井の優勝は決定です。二番目に現大塚製薬の上門が入りました。上門は今ではマラソンで2時間6分をマークしましたが、高校までは中距離でした。


 そして、その他のスピード型の選手を押しのけてなんと私が3番目に入りました。スピードはありませんでしたが、余計な動きをしていなかったので、余裕があったのでしょう。そして、今から思えばですが、100m2分54秒というのは当時の私からすると、5000mのレースペースよりやや速いだけのペースで5000mのレースペースとほぼ変わりません。高校の京都程度のレベルであれば、1500mは走れるけど、5000mになると、まるでもたないという選手がたくさんいます。もしかすると、スローペースになったことで、私の得意なペースとなり、余裕度が著しく高かったのかもしれません。ゴール後に中島先生のところに挨拶に行くと「桜井君に勝ってくださいと言わんばかりのレースやな」とポツリと言われました。


 当時は、別に3番になって嬉しいという気持ちはなく、ほっとした気持ちの方が大きかったのですが、今となっては桜井と上門という強大な相手の次で思い出にはなります。そう言えば、上門とは大学になってからびわ湖クロカンでも一騎打ちをしました。中盤からアップダウンを利用して、何度も何度も揺さぶりをかけ、さらにロングスパートをかけましたが、びくともせず、ラスト400mで私も「もうええやろ」と思いました。こちらはもう使える銃弾は打ち尽くしてるのに、向こうは後ろにぴったりついてまだ一発も弾を撃っていないのですから。一秒でも速く走るにはちょっとくらい引っ張ってもらおうと思って最後は敗北を認めながら、上門の背中をたたいて前に出るように促しました。


 それはそうと、1500mに話を戻すと、逆の経験をしたのが近畿インターハイです。私は近畿でも死に物狂いで予選を突破すると決勝は澄み切った気持ちで臨むことが出来ました。緊張はしていたのですが、自分がインターハイに出るとしたら、リラックスして集団の後方につけて800mから位置取りを前に移し、ラスト300mから流れにのって、ラスト100mで勝負するしかないと思っていました。パターンが一つしかなくて、それ以外の展開になったら可能性はゼロなので、最高の集中力が発揮出来ました。選択肢がないというのはある意味では楽です。


 実際にその通りにレースは進みました。850mあたりでするすると前に出たときに、転倒にまきこまれかけましたが、「ちょっと失敬」と言わんばかりに飛び越して、位置取りを前に変えると予想通りのスパート合戦、ここをリラックスして流れに乗るように意識したのですが、6番手の位置を確保できたのは、ラスト250mまででラスト150mのところで8番手まで落ちました。その時私は「ここで勝負に出えへんかったら、どっちにしても落ちる。無理やと思うけど、ここで最後の可能性に賭けてみよう」と思いました。


 ラスト100で使うはずだったブーストをそこで使い、勝負に出ました。しかし、やはり最後の50mで完全に失速しました。最後の100mで使うはずのブーストはやっぱり100mしか持たなかったのです。その時、私は外から見るのと、実際にやってみることの違いを知りました。私が1年生、2年生の時はご活躍される先輩方の走りを外から見ているだけでした。その時、思ったのは「1500mって最後はコンマ差とか、秒差で決まるし、位置取りの難しさもある。そんな薄氷踏むような競技に自分の3年間をかけたくない」ということです。観てる側としてはギャンブル性を感じたわけです。


 ただ、やってみて思ったのは、インターハイを逃した1.5秒は絶対に揺るぐことのない1.5秒だったということです。自分の中ではもう計算しつくして、勝負に出て、それでもスプリント勝負で負けたわけではなく、最後はまぎれもなく失速していたのですから。もし、あれが自分に余裕があってラスト200mを28秒であがったのに、相手が26秒であがったとなると釈然としない何かが残ったと思います。でも、完全に最後はスタミナ切れでした。観てるときはスプリント合戦だと思っていたのですが、やってみると全然違ったという訳です。そう言えば、先日の2000m+1000mも最後の300mは45秒台であがっていますが、今はそんな練習全くやっていません。


 プロ時代もいかに1000m3分5秒から3分ちょうどに余裕が持てるかということをテーマにやってきましたし、起業後はスピードを追求する余裕なんかなく、そもそも最近やっと二部練習をする余裕が出てきたという状態です。では、何故ラストそんなキレッキレッの?走りが出来たのかと言うと、やっぱり平井君経由で聞いた桜井君の「ラストスパートは○○で決まる」というのが大きかったです。○○に当てはまる言葉はここまでのブログを読んでくださったあなたならもうお分かりですよね?


 ラストスパートは○○で決まる以外にも、「トレーニング戦略とは○○である」とか「究極的には長距離のトレーニングは○○が出発点」とか「トラックのタイムは出そうと思えば出せる」とか「究極的には○○が達成できてないとランニングの目標を達成できていないと思った方が良い」とか消えた天才平井健太郎の数珠の言葉がちりばめられていますので、下記のURLより「日の丸を背負った京大生、消えた天才平井健太郎のトレーニング戦略」3時間の動画全編をご確認ください。


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