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コーチレナト・カノーヴァのマラソントレーニング

 レナート・カノーヴァという名前を皆さんは聞いたことがありますか?月間陸上競技で何回か取り上げられているコーチでマラソン界でもっとも有名なコーチと言っても良い方なので知っている方も多いかと思います。

 一方で、やっぱりなかなか日本には海外情報が入ってこないのも事実です。私が初めてコーチカノーヴァに興味を持ったのは大学に入学してすぐの月間陸上競技でその年のボストンマラソンで2時間3分6秒で走ったモーゼス・モソップ選手が大きく取り上げられており、モーゼス・モソップ選手のコーチがコーチカノーヴァだったからです。

 それから5年後たまたまケニアのイテンで合宿をしていた時に直接コーチカノーヴァから話を聞くことが出来ました。その時の話とユーチューブで本人がトレーニングについて語っている内容を総合してまとめてみたいと思います。

 コーチカノーヴァが指導している近年の主な選手としては世界選手権二連覇、ロンドンオリンピック銅メダリストのアベル・キルイ選手、先述のモーゼス・モソップ選手、ドイツ記録保持者のアルネ・ガビウス選手、ノルウェー記録保持者で2017年福岡国際で優勝し、日本でもおなじみのソンドレ・モエン選手などです。今この記事はニュージーランドのロトルアというところで書いているのですが、同じ屋根の下で日々練習しているリザ・ハーナー選手も我々のコーチディーター・ホーゲンの下に来る前はコーチカノーヴァの下で練習していた選手の一人で2016年のリオ・デ・ジャネイロオリンピックはドイツ代表で出場している選手です。

 コーチカノーヴァのトレーニングのキーワードは「特異性」「リカバリー」「高強度な練習の量」「変化走」の4つにあると思います。

特異性
 特異性という言葉は過去のブログの中で何度も書いている言葉ですが、改めて説明しておくとその競技にとって専門的であるという意味です。他の言葉で言いかえると、実戦的、特殊性などと言い換えることが出来ると思います。マラソンというのは42,195㎞を出来るだけ速く走る競技です。だから、トレーニングは長くゆっくり走るのでもなく、速く短く走るのでもない。マラソントレーニングは42.195㎞に近い距離をマラソンレースペース、若しくはそれに近いペースで走る競技だというふうにおっしゃっています。具体的に言えば、ハーフマラソンの距離以上、マラソンレースペースの90%以上の練習以外はすべて特異的ではないというふうにおっしゃっていました。また、トップランナーの練習は1㎞5秒違えばそれは全く違う練習であり、同じ高強度の練習の中でもいくつもの強度でトレーニングすることが大切だというふうにおっしゃっています。なので「高強度の練習が大切、質の高い練習が大切、市民ランナーとアスリートの一番の大きな違いは練習量ではなく、練習の質だ」というようなことを様々な記事の中で頻繁におっしゃっていますが、だからと言って速ければ速いほど良いと考えているわけではありません。いくつかの強度の練習を組み合わせながらマラソンに適した量をこなしていく、ただその全ての練習はある程度高強度でなければいけないということです。

 ここまでの考え方自体は万人に応用可能だと思います。彼が指導している選手の多くがトップレベルの選手なので速度自体はかなり速く同じペースで走るのは難しいと思います。ただ単に速く走れば良いという訳ではなく、レースペースの90%以上かつハーフマラソン以上の距離の練習を特異的というふうに呼んでいる訳で単純に自分のマラソンぺースに0.9をかければ全員に当てはまります。

 また補足しておくと様々なペースを組み合わせることが大切なので、マラソンレースペースの100%を超える練習も入ってきます。そのように考えると90―110%マラソンレースペースが練習の鍵ということになると思います。その範囲の中でどれだけ量を増やしていけるのかがカギと言えると思います。

 練習の特異性ということで言えば、これ以上ないほど特異的な練習をやるのが大きな特徴です。というのもマラソンのレースペースの98%に近いペースの40㎞走が入ってくるからです。練習でマラソンレースペースの98%というのは調整していないことを考えると練習でマラソンを一本全力で走っているようなものです。ここまでやる選手はトップランナーの中でも珍しいですし、慎重に積み上げていかないと、練習でここまでやってしまうと、レースで結果を出せなくなる選手の方が多いのも事実です。

 ここからは私の推測です。コーチカノーヴァも他の多くのトップコーチと同様過去には様々なコーチや選手からトレーニングを学んだようです。その中の一人としてニュージーランドの名コーチアーサー・リディアードと日本の瀬古利彦選手がいます。瀬古さんの練習の中に30㎞や40㎞のタイムトライアルが入っていました。練習で40㎞走を2時間5分―3分台でされていたのは有名な話です。そして瀬古さんの指導者であった中村清先生が大きく影響を受けていたのがアーサー・リディアードで、本人に話を聞きにニュージーランドまでいっているほどです。

 このアーサー・リディアードが練習に多くのタイムトライアルを入れていました。マラソンになるとそこまで頻繁に入れていたわけではありませんが、1500m-10000mの距離の種目では多くのタイムトライアルを取り入れて仕上げていったのは有名な話です。

 余談ですが、私が尊敬する友人の一人の平井健太郎が京都大学の学生だった頃(当時10000m28分36秒、インターカレッジ2位、ハーフマラソン62分30秒)もリディアードシステムを参考にしており、10000m28分台を狙いに行くときには一人で毎週のように5000mを14分20秒―30秒で走っていました。このタイムトライアルは全力ではなく、特異的な練習を取り入れてレースに向けて仕上げていくのが目的です。

 話を元に戻すと、コーチカノーヴァも瀬古さんや中村清先生の影響を多少受けているのではないかというのが私の推測です。

リカバリー
 コーチカノーヴァが重視しているものの一つにリカバリーもあります。彼の有名な言葉の一つに「練習はシャワーを浴びた後に始まる。何故なら、練習はリカバリーから始まるからだ」という言葉があります。要するに、通常は練習を終えてシャワーを浴びて「あー練習が終わった」と思うものですが、そうではなくてリカバリーがあって回復するから次の練習が出来る。だから、リカバリーが練の習始まりだという意味です。

 ハードな練習とハードな練習の間も間をあけるのも特徴の一つだと思います。ハードな練習とハードな練習の間は2日から4日程度空けるのですが、これはトップランナーの中ではかなり間をあける方だと思います。イテンで話していただいた時には「典型的な週間プログラムの流れをもっているか。ケニア人のように月曜日にマンデースペシャル(起伏のあるコースでのハードな21㎞)、火曜日にトラック、木曜日にファルトレク、土曜日にロングランというやり方は、私のやり方には合わない。ハードな練習の間にしっかりとリカバリーを入れると、毎週の流れは必然的に違う流れになる」と話してくださいました。

 また一部練習の日が多いのと完全休養があるのも特徴の一つだと思います。誤解のないように述べておくと、ハードな練習とハードな練習の間も練習はします。レースペースでの80―85%前後のペースであり決して楽なランニングではありません。ジョギングはトレーニングにならない。ジョギングするとトレーニングにならないのにリカバリーを遅らせる。だったら家で寝ている方がましというのが彼の考え方です。体というのは一日に二回同じような練習をしても刺激に対して適応しません。朝と午後に二回15㎞を3:45/㎞でやっても体が適応するのは一回分です。にもかかわらず、体の回復は遅れてしまいます。

 なのでマラソンが近づいてくると一部練習の回数が増えてきます。また持久系アスリートのほとんどがアクティブレストを好むのに対し、完全休養を容認するのもこういった観点があると思います。

 休養とは勿論、ただ単に練習をしないという意味ではありません。きっちり体を休め、回復に集中するという意味です。だから、「市民ランナーと競技者の一番の違いは練習の質にある。市民ランナーは決して競技者と同じ質の高さを維持できない。何故なら休養の質が低いからだ」というふうに述べています。

 これは私のコーチも同じ考えです。ハードな練習の期間には一日12時間は寝るように指示され、この間は外食したり遊びに行ったりしないように言われます。禁欲主義者だからこうするわけではなくて、実際にこうする必要があるからこうするのです。そのくらい休養を重視します。

特異性と一般性の関係性
 ここで一般性と特異性の関係性について述べたいと思います。ここまでの内容だけだと実戦的な練習かレースペースの80%程度の練習、若しくは何もしないのかしかないように感じられると思いますが、決してそれだけではありません。コーチカノーヴァ自身は次のように語っています。


「もしあなたが練習で300m3本を34―35秒を6分のリカバリーで400mを46秒で走れるランナーであれば、もし300m3本を同じリカバリーで33―34秒で走れるようになればレースでは400mを45秒で走れる。そこまでは天才じゃなくてもわかる。問題はそこに到達するために何が出来るのかということだ」

「一般的練習はそれぞれ別々に組み上げる。有酸素パワー、脚力、スピード、有酸素能力、無酸素パワーなどそれぞれをくみ上げるがそれをそのままレースに持っていくことは出来ない。一般的練習とは家の材料を作ることであり、特異的練習とは家をくみ上げることである」


 特異的な練習を重視しているからと言って特異的な練習だけやるわけではありません。特異的な練習をするために一般的な練習を組み上げていきます。

変化走
 変化走は多くの指導者やマラソンランナーがトレーニングに取り入れている練習で決して彼独自の練習ではないのですが、彼のトレーニングプログラムの中では重要な部分を占めると思います。具体的にはどのような練習かと言うと3㎞6本を間は1㎞3分30秒でつなぐような練習です。これも基礎作りの段階ではファルトレク1’/1‘などの練習になりますし、レースが近づいてくると5x5㎞を1kmを3分30秒でつなぐような練習になります。

「ケニア人はレース中に回復する」というのは彼の言葉ですが、このレース中に回復させるのに重要なトレーニングがファルトレクです。生理学的には乳酸除去能力の向上や細胞膜の透過性の向上などと説明されます。長距離競技においては乳酸を蓄積させずにどれだけ速く走れるかというのが重要な決定因子の一つになります。

 ただ、乳酸というのは出るか出ないかではなく、常に出続けているのですが、ピルビン酸という物質に再変換され、再びエネルギー代謝の材料として使われます。ただペースが速くなるとこの乳酸からピルビン酸への再変換速度が追い付かなくなり乳酸が蓄積されていきます。

 乳酸が疲労物質であるとか、疲労物質出ないとかいうトピックが10年ほど前に八田秀雄さんという方の著書をきっかけにホットなテーマになりましたが、それは全く本質からかけ離れたテーマです。人間の体は乳酸が蓄積するような高強度な運動は長く続けられないということに変わりはないからです。

 人間の体は様々な代謝システムを複合的に回して運動を続けます。常に物質の分離と結合を繰り返して循環させながらエネルギーを生み出し続けているのですが、この異なる代謝システムのうち乳酸を蓄積させずに代謝させるエネルギーシステムの効率が改善されれば、代謝速度が速くなりかつ乳酸が蓄積されないので、速く長く走ることが可能になります。

 もう一度確認しておくと乳酸は蓄積しないとしてもレース中に常に発生しそれをピルビン酸に再変換してエネルギーとして使っています。このピルビン酸に再変換して処理する速度が速くなればなるほど、速く走っても乳酸は蓄積されません。

 もう一つ言うと、乳酸が一時的に蓄積してもペースを落とせばその蓄積した乳酸を処理することが出来ます。乳酸を蓄積させずにどれだけ速く走れるかという能力とどれだけ速いペースで蓄積した乳酸を処理できるのかというのは若干違う能力です。

 レース中に回復するというのは速いペースで走っても乳酸を除去することが出来るということを意味し、変化走はこの能力を高めてくれます。またそれと同時に乳酸を蓄積させずに速く走る能力も向上させます。

 特にマラソンのようなペースの遅い競技ではこの能力はとても役に立ちます。私の場合は5-6x2k/1kという練習をレース前にするのですが、この時疾走区間は6分―5分55秒、つなぎは3分15秒でやります。こういう練習をしておけば前半のペースが速くて5キロ15分を少し切るペースで行ってもどこかで3分10秒くらいまで落とせば呼吸は十分に回復するという目途が立ちます。

 マラソンの場合、乳酸の除去だけではなく有気的脂肪酸をどれだけ速く回せるのかという問題があるので、これはあくまでも生理学的には一要素なのですが、実際のトレーニングでは生理学で分類されるように一つの練習が一つの系(システム)に対応するわけではないのでこれらマラソンで必要なシステムを複合的に適応させていきます。

 コーチカノーヴァの場合、有気的脂肪酸の代謝速度の向上のためには高強度でのロングランを重視しています。このロングランは決してゆっくりではありません。何故なら、大切なのは有気的脂肪酸の代謝速度だからです。レースペースの85%を下回るようなペースでは有気的脂肪酸の代謝速度の向上はなかなか期待出来ません。

 だからと言って、全ての持久走がレースペースの90%で行われるわけではなく、80%程度のペースでゆっくり長く走ることもあります。これが一般的トレーニングの重要性です。ゆっくり長く走ったり、速く短く走ったりといった一般的トレーニングを飛ばしていきなり長く速く走ることは出来ません。

トレーニングの期分け
 トレーニングの期分けとしては初めの4―8週間が基礎構築期になります。マラソンの後休養をとるのですが、この休養期間では脚筋が落ちているので脚筋を戻していくのがトレーニングの主目的になります。故障の後も同じです。中強度の持久走を中心に走行距離を戻しながら80m程度の坂ダッシュや数百メートルから一キロ程度の上り坂で有酸素パワーを戻したり、比較的ゆっくりなペースのロングランで腱、筋、靱帯などの強さを戻していきます。

 この期間は週13回の練習が基本になります。後のより特異的な練習をやる時期には一日一回の練習が基本になります。多くの選手はこの基礎構築期が終わるとレースに出る準備が出来ていると判断するのですが、それは違うと彼は言います。この期間が終わるとより特異的な練習をする準備が出来ているのであって、レースに出る準備が出来ているのではないと彼は言います。

 また一応の基礎構築期と特異的な練習の時期があってもその間に極端な差があるのではなく、あくまでも徐々に実践的な練習を向上させていきます。例で言うと基礎構築期から特異的トレーニング期に入ったばかりの時期にやる3㎞6本を一キロ3分ペースがあったとすると、強風、冷たい雨、少し疲れている、芝生のトラックなど様々な要因で一キロ3分5秒になったとしても、その強度が一キロ3分であると思うのであれば、その練習を最後までやるべきだと彼は言います。何故なら、良い条件でやる一キロ3分ペースの練習とトレーニング刺激は同じだからです。この時期には内在的なトレーニング刺激が重要です。

 一方で、レースが近づいてくると厳密にレースを想定してレース当日に自分に何が出来るのかを知っておく必要があります。その時には一キロ3分ペースが一キロ3分5秒まで落ちたらそこでやめるべきだと言います。何故なら、この時期には数学的に体でレースの状況を覚えていく時期であり、外在的なトレーニング刺激が必要な時期だからです。従って、グリップの良いアスファルトの上で台風や雪の日を避けることが望ましいです。

まとめ
 今回は世界で最も成功しているコーチカノーヴァの練習の原則を紹介しました。補足しておくと彼が重視しているものの一つに精神性があります。これは他のコーチと同じです。如何に雑音をシャットアウトし、気持ちをマラソンに集中させるか、どのように練習やレースを思い描いて精神的な準備をするのかです。彼の精神的な準備を重視する一つの言葉を紹介しておきます。

「調整に失敗した選手が途中棄権して数週間後に別のマラソンに出場するケースがあるが決して上手くいかない。途中棄権しているので体は回復する。調整に失敗しただけでトレーニングも充分に出来ている。それでも数か月一つのマラソンに集中した後、たった数週間後で精神的な準備は決して出来ない」

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