見出し画像

親不知の大冒険☆海底

『下の歯は屋根の上、 上の歯は樋の下。』

右下親知らずを日本一高い所に納め、それから一年が経とうとしていた。
再び訪れた季節に、暑さで眠れなくなったある夜に放置したままの『上の歯』の存在が何気なく気になって、開けることの無かった小箱を開いた。

抜歯したときに貰った親知らずは、綺麗なピンク色の歯茎が歯を取り囲んでいて、あまりにもリアルな元自分を直視できず、中身が見えないように小さな箱に締まっておいたのだ。

蓋を開けて驚いた!あんなに綺麗だったピンク色の歯茎は時間の経過と共に変色し、黒に近い茶色に変化を遂げていた。

このまま放置すれば、いずれは朽ち果て異臭すら漂うのではないか?
そう危惧した私は、すぐさま『上の歯』の処理方法について思考を巡らせた。

『下の歯』を日本一の山の上に納めた以上、『上の歯』が樋の下という訳にはいかない。謎の使命感にかられ、日本で一番低い場所を探した。

日本で一番・・を第一条件にすると、地形に疎い私には地上では思い当たらなかった。

ウミノナカ ナラ モット ヒクイ カモシレナイ・・・

それはまるで神からの啓示のように、私のど真ん中に降りてきた。海の中といっても、浅い場所では意味がない。深い深い海底でなければ・・

そこで私が焦点を定めたのが『上の歯』を深海に沈めるという迷案だった。
富士山登頂で懲りたはずの浅はかな思い付きを、性懲りもなく繰り返すことにしたのだ。

海に入るには、やはり夏の間がベスト。残りわずかな夏の日のスケジュールを確認し、すぐさまダイビングのライセンスを取得するべく、スクールに申し込んだ。

相変わらず、何の知識もないままの思いつきなのでダイビングのライセンスさえとれば深海に潜れると思っていたが、通常のライセンスでは、水深18mまでしか潜れないと講習会で知った。

それならば、と水深30mまで潜水可能なワンランク上の「アドバンス(AOW)」まで続けて勢いで取得した。

「アドバンス(AOW)」のライセンス取得には、必須科目にディープ・ダイバーというのがあった。

実際に水深30mまで潜り、窒素酔いの症状がでていないかを海の中で計算問題を解いて確認するという実地訓練だ。

その先一人で水深30mまで潜れるのかどうか自信がなかったので、ディープ・ダイバーの演習時に歯を海底に納めることにした。

ダイビング用のグローブの中に、こっそりと歯を隠し気もそぞろに潜水を開始。ただでさえ、慣れない海の中。酸素の供給が途絶えれば数分で絶命してしまう。

そんな危険と共に酸素タンクを背負い、辿り着いた海底は神秘の世界だった。コバルトブルーだった海の色は、水深を増すごとに深く鮮やかになった。

聞こえるのは、酸素の吸引音と吐く息が放つ泡の音だけ。水温も低くなり、寒さに凍えながら深い静寂の中でそれは実行された。

海中計算テストは数人が交代で行われるので、自分の番を終えて他の人に注目が集まっている中で、こっそりと、厳かに、まるで窒素良いしているかのようなたどたどしい手つきで歯を岩の隅に隠した。

古代生物みたいな変わった姿形の深海魚に、一部始終を見られていたかもしれないが誰にも見つかることなく任務を遂行して、もう二度とくることがないかもしれない深海を後にした。

日本一低い場所ではなかったかもしれないが、自分で選んで納得できる場所に歯を還せた。


なにか重大な任務をやり遂げたような達成感と、山と海を制覇したような満足感を得ることが出来た。

たかが親知らずで、ここまでするのは狂気の沙汰かもしれないが重力のように逆らうことのできない見えざる力が私を突き動かした。とにかくそうせざるを得なかったのだ。

これが『若気の至り』というやつなのかもしれない。

『下の歯は屋根の上、 上の歯は樋の下。』


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?