見出し画像

教育の力 を読んで

こんにちは、お久しぶりです。
最近はコロナによるモチベーション低下により、読書も勉強も全然できていませんでした。
一昨日より、読書と勉強を再開したので、早速1ヶ月ほど読むのに時間がかかってしまった
「教育の力」を読んだ感想を書いていきます。
【先に言っときます、今回まじで適当】

文中、唐突に〈〉こんなものが出てきます。
〈これは僕がそのとき思ったこと、考えたこと〉
をぶち込みます。
興味ない人は無視して構いません。

苫野先生の本は、重要な部分がわかりやすい表現(具体例や譲歩の構文など)なので、内容はともかく、高校生の読者には凄くいいのではないかと思います。

ま、そんなことはどうでも良くて、早速要約と感想を。

はじめに
教育の力を最大限発揮できるような教育の構想は
「学びの個別化、協同化、プロジェクト化」
「閉鎖的になりがちな学校を様々な地方で開き、子供たちが多種多様な人たちと交われる空間を作ること」
この二つと筆者は主張しています。

〈子供は大人の姿を見て成長する部分が多いから、二つ目の項目に関しては間違い無いと思います。たくさんの夢を持った大人たちに触れ、かっけえ!とかだせえ!とかなんか色々思ってくれたら良いんじゃないかと思います〉

苫野先生は、まずは歴史から公教育について考えていきます。
食料の備蓄から始まった戦争。滅んでは栄えの繰り返し、この命の奪い合いをどうすれば終結できるか、これはどの時代も人類最大の課題の一つである。〈現代もそーよね〉

そこで、これが見出されたのは
「私たちが自由になりたいという欲望を持っているから」戦争は終わらない。と言う原理。
生きたいように生きたいと言う欲望があるから、私たちは戦争を終わらせることができない。
ヘーゲルはそこで
それぞれが自由を主張するのではなく、
「とりま、互いに相手が自由だと認めるしかねーやんw」て主張します。
武力行使は、長い目で見て長続きしません。たぶんいつか不意打ち似合うと思う。

それを公教育に生かし
「自由の相互承認」を実質化することこそが教育における重要なポイントである。

しかし、過去から現在まで日本の教育は停滞したといわれます。それは「国のため」という性格を強く持ったものであったから

〈上から言われることを素直に聞く人間を生成することに長けていると言われる学校。いわば軍隊の性質です。支配されやすい人間で良いのでしょうか?〉

(すみませんこの辺は以前の苫野先生の本で書いてあることのおさらいですので、適当に書きます。大事なことですので、興味ある方は前のnote見てください)

自由の相互承認において、全部肯定する必要はない。
わけわからんくても、「とりま承認はする」
程度でOK。しかしこれが難しいかも。
でも、我々は勝手にこれを学んでる。
どこかで折り合いをつけて、喧嘩になりそうになっても、「このルールでお互い恨みっこなしね」と決まる。そうやってじつはいきている。

「なんでもかんでもおなじは、必ずしも平等ではない」

人それぞれ個性があり、経済的な貧困や障害もあります。それぞれの人たちの置かれた状況に応じて平等のためにアプローチします。
つまり、

平等のためにこそ、多様な手段が必要なのです

必要な平等は、教育の機会均等および、「教養=力能」の獲得保証の平等

他方で必要かつ容認されうる多様化は
この平等を達成するための方法と
この平等達成以降の教育の多様性
2つの平等が達成されれば、競争も容認される。
しかし、前提条件は「平等」

そして、原理がはっきりしていないと、教育についての議論や構想はなんかふやふやする
非本質的、非建設的なものであってしまう。

〈根本がずれるとわけわからんくなるよね。
なんのために、誰のために教育あるの?
というのがあやふやだと、わけわからん方策になってしまう〉

〈スポーツでも、なんのためがはっきりしてないと競技として続けるのは特に厳しい。
ま、思考停止してしまえばできるんだけどそれってクソほど意味ないよね爆笑〉

「目的状況相関的方法選択」
→教育の方法は目的と状況に合わせて柔軟に対応する必要がある。
前回のノートでかいた「問い方のマジック」
にも付随するけど、これが良いという絶対的なはなしはないから、そのばの状況に合わせて対応せんととんちんかんになるときがある。

ここまでで序章
最初の内容忘れてたからしっかり振り返った

第一部「よい」学びをつくる

今求められている力
「自ら考え自ら学ぶ力を持った人間」

知識をいくら覚えても、そんなんあんま役に立つかわからんし、それよりも、しっかり考えて問題解決能力などを伸ばした方がいい。
以前、H10年の学習指導要領で内容の3割減があった。なんかゆとりとか色々うるさいけど、それはそんなまーわりとどうでも良い知識を減らして
「問題解決力」を向上させるための手段であった。目の前のものだけで判断するとゴミだけどまあ、理にかなってはいるよね。

「学力の本質」とは学ぶ力である。
自ら学ぶ力が重要なので、ひつよな時に必要な知識情報を的確に学び取り、自らの課題に立ち向かえる能力。さらに、ネット社会の現在では、信頼できる情報を見つける、判断する
が必要であると言える。

先ほど言ったけど、ゆとり教育はこの力を重視しようとしていたと考えられる。それならば、叩かれんでもいい。知識溜め込みは、脳筋プレイや。

「学びの多様性」
いつ学ぶかが制限されている現在の学びのあり方は、非効率である。
その理由は子供の興味関心はそれぞれ異なり学ぶスピードも自分に合う学びもそれぞれ違うはずだからだ。さらに、一律にやらされる勉強は子供の学習意欲を削いでしまう可能性がある。
〈そこで主体的対話的で深い学びが大事ですね。経験学習とか、好きなこと、話すことでアウトプットすれば単純に学力は上がりそうな気もする〉

ガードナーは人間の知能は8つに分けられるという。そのうち、優れているのは2つ3つとあり、特性に応じて学び方にも向き不向きがある。
これも上記の非効率の理由になる。

そこで、自ら計画を立て自発的な学びを続ける環境を作れば子供たちは自分の学びを進めていくのではないかというパーカーストの主張。
〈計画はともかく、自発的な学びこそ僕は1番大事だと思う。これなら頑張れるってやつを頑張るってことは1番楽しいと思う〉

そうすれば、子供は楽するやろとか言われます。しかし、「子供はむしろ自分の探究に打ち込むときこそ、最も困難な道を進んで選ぼうとする」
楽をしようとするのは勉強を強制されているから。と。

そこで、調和の取れた発達とはなんなのか。
様々なことを満遍なく知ってること
これって本当に大事?今ネットあるし、ググれば一発。それに価値をおくのはなんかなー。
学ぶ力こそが大事であると思うのはそこもある。

競争

競争が学力の向上にいいと言われるが、
実際はそうでもない。

競争より強力協同の方が高い生産性を生んでいる。
〈部活においても、競争を過度に煽るよりは、協同をうまく使うといいかもね。むずいけど〉

「第二部よい学校つくる」

クラスに馴染めない、場の空気を読めない、規律を乱す
これが悪とされる。
そいつらは教育によって矯正されるべきだと言われる。

〈合わない合うは個性が発揮されているからであり、ADHDなどの可能性もある。それを違うから一概に排除するのは自由の相互承認に反する。さらには、あいつはあーゆーやつと容認することも自由の相互承認。自分にとって異物だからと言って彼らを排除していい理由にはならない。それは大多数が正義だと勘違いし、排除することを正当化する、誤った正義感、誤ったナイトになってしまう。これは普段の我々の生活にも潜んでいる。特にコロナの自粛警察とかね〉

合わない人が合わないところから逃げることができなければ、自由の相互承認が成り立っていないとかなりきついことになるね

またクラス内は、同質のものが集まり同質な集団を作る。その同質の集団でも空気の読み合いが始まり、少しでも異端したらはぶられたり虐められる。
〈空気を読み合いながら同調圧力の中生きるの生き辛そう。〉

子供たちに対する教師の「信頼・商人」が相互承認の感度を育む土台

信頼されるという経験は、「自己信頼」自己承認の大きなさあさえになり、
他者の信頼につながる。
〈まー、信頼されたら嬉しいし、相手にもしたくなるよねー〉

逆にそれが不十分だと、絶えず他者の視線に怯え、評価に過剰反応してしまう。
そういういみで

心の安全基地が必要

また、信頼していても、子供が宿題やってこんなどといって、裏切られる。
しかしこれは裏切られたのではなく、
こちらが勝手に押し付けた期待。
子供は成長している最中、そのようなことがあっても仕方ない。信頼するのは子供の成長。
我々が施せば、きっといつか自らやる。
そのためになにができるか。

「よりよい社会作る」

まで行こうと思ったけど疲れたので終わり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?