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わたしの希死念慮について


希死念慮とは、死にたいと思う気持ちのことをさす。

高校の部活の時間、ふと死にたいなと思うことがあった。
それは大学に進んでも無くならず、むしろひどくなっていった。
どんな時、何かをしていても、なんとなく死にたいという気持ちが脳裏に浮かぶ。
私は希死念慮が身近すぎて、それがあることを不思議に思ったり自分がどこかおかしいのかもと、疑うことをしなかった。
また、人に相談できるものでもないしと、家族にも言わなかった。

相談できたのは、中学からの付き合いの友達、同じ部活の先輩、国語の先生、保健室の看護師、カウンセラー。

そもそも疑問だったのが、「なぜ生きねばならないのか」。
生きている事が当たり前すぎるくらい当たり前だから、それが普通だと思うのもわかる。
なにより、この疑問を投げかけるとき、相手は生きているのだから、それ自体が失礼な行為とも思う。

希死念慮について誰彼かまわず相談しようとは思わなかったが、限られた相手との会話の中でも同じ考えを持つ人は全員じゃなかった。
さらに、同じく希死念慮じみた考えを持つ人はいたが、その中でも自分はより彼岸よりだった。これが人生を困難たらしめてきた。

よく、死ぬ気でやれば、とか、死ぬ気になれば、という常套句があるが、本質的な効果は逆だ。
就活失敗しても死ねばいいか、とか、これが終われば死のう、とか、ポジティブにもネガティブにも死がついてくるようになった。

相談相手のうち、一人に言われた言葉が記憶によく残っている。


キミは昔からどこか危なげで、ちょうど深い谷の上で終わりの見えない綱渡りをしているようで心配だよ、と

なぜか、その言葉がどうしようもなく嬉しかった。

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