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7.デスノート

「デスノート」と呼ばれるノートがウチにはある。もちろん、誰かの名前を書くノートではない。

父がそう呼んでいたデスノートは、エンディングノートのことである。

面白おかしく、そして、少しの恐怖を感じながら呼んでいたのではないかと、今になってから感じる。

エンディングノートは本当に本当に健康なうちに書いてください、と心から感じる。

病気になってから、渡せるものではないし、本人はあまり良い気持ちで書けるものではない。

緩和ケアが始まり、ケアワーカーの方から最期の過ごし方、みたいなパンフレットをいただいた。でも、それを父は見なかった。私も見れなかった。

最後を考えるのは、お願いだから元気な時にしてほしい。
最期に最後を考えるのはできない。考えさせたくない。

私の家のデスノートに唯一書かれているのは、父が好きな、大切にしていた言葉だった。

亡くなってから、その言葉の強い意味を知り、深い背景を考え、そして私自身が実行するための方法を模索している。

デスノートに記された言葉は、意外と重たくて難しい。

「終活」なんて言葉が流行ったが、もし、本気で先を見据えて動きたいなら、今すぐ始めてほしい。終わりが見えた時に動くことはできない。

それでも父は、亡くなった後のことを細かく書いていた。お葬式について、とかそういうことではなく、誰が力になってくれそうか、私たちが助け舟をお願いできる、父の信頼できるメンバーについて記載していた。

そして今、私はその方々に助けていただいている。

亡くなってから、父の交友関係を知った。たくさんの素敵なお友達や、仲間がいた。

デスノートではあまり見えない、父から繋がる、人と人の交じり合いだ。

人はいつ、終わりを迎えるかわからない。私もまた、エンディングノートしかり、デスノートの準備をしておく必要がある。

そして、いつもそばにいてくれる仲間に感謝しながら、日々を過ごしていく。


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