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la la la 113. 「誰か」といなくても「わたし」は最高の個体で完璧な生命体であることを忘れない💫(Merry Christmas!)

こんにちは。そしてMerryChristmas!
日本人にとってクリスマスは、信仰に関わらず何かしらの特別な年末のイベントです。だから気軽にわたしもメリークリスマス!と言おうと思う。
同時に「イエス様」とかへの信仰の気持ちがないからこそ、日本人はクリスマスに「誰か」と寄り添いたい「誰か」といなくては世界に置き去りにされたような気持ちになるような気もしています。ある意味イエス様の生誕を想う日が重要であれば、一人きりでも神聖でありイエスと共にあるわけで寂しくはないものね。
ここ数日、第1チャクラや蟹座満月など「帰属性」や「居所」「家族(血族だけはない家族)」について、クリスマスは密着性の強い日だという風に書いてきました。けれどそれはある意味「誰かと過ごす」ことが前提のように聞こえる場合があると思い、今日、この記事を書くことにしました。
「誰か」といなくても「わたし」たちは最高の個体で完璧な生命体であることを忘れない。

昨日は満月だったので、夜中にひとりの時間を持ちました。
そしてこのマガジンが始まった5月からわたしなりに試行錯誤してラララ世界をやってきたことや、新月や満月や惑星や宇宙について、こんな風に寄り添う生活を始めたことについても考えていました。
その時に、本当にそれは一瞬ふっと、摑みどころのない感じでやってきて、完全に掴みとる前に消えてしまったのですが、一つの感覚がやってきました。それは「人という生命体が誕生した時」の何か、の感覚です。

わたしには信仰している宗教もないし、宇宙のこともまだまだ掘り下げ途中です。だからつまりそれが「誰」の感覚かわからない。「誰」というほど明確な名詞を持たないものかもしれないし「感覚のみの存在」かもしれない。ただその感覚というのは「とても美しいものがこの世界に生まれた」そんな感覚でした。その感覚に性別や生命上の理屈はなくて、妹や息子や姪や孫が生まれた、つまり赤ちゃんが誕生した時の愛しみみたいな、あの感覚とも全然違います。

掴みきれないうちに去って行ったのでうまく言えないのですが、いちばん近いかもしれない感覚は、宇宙に行っていろんな惑星をロケットから見ることができたらそんな感覚がするのではないかというような感じ。

そう、つまり、人はおのおの独立した、そして”インクレディブル”に美しい、笑、意思を持つ1つの惑星なのだと、そう感じました。
我々は生まれながらにして環であり、完全体なのだ。成長をし形態は変わって行くけれどどの状態であっても生命体として完璧なのだという感じ。だから、うまくいえないのだけど誰かや何かと「関わりあう」のはそのずっと先のプロセスで、根源は「個」にあり「 1 」にある、そんな気がしました。

そう思った時に、今人は、誰かと関わることを前提に生き過ぎている、そんな気がしました。これは宇宙的な感覚なのでしょう、人が人と出会い交わり関わることを人は「愛」と呼んでいるのですから。
けれどだからこそ、クリスマスは何をするの? というよりは「誰と過ごすの?」という質問の方が多い。どこへ行くの? 誰と行くの? いつも「誰と?」がセットになっている。一人で過ごすというと「寂しいじゃん、家にきなよ」とかっていうやり取りがあったりする。
でも実際、ひとりで過ごすことはさみしいことか。

完全体でしん、と存在する惑星たちを眺めていると、美しい、しかでてこない。それぞれがそれぞれの軌道を守り、一定の距離から光を与えあっていても、さみしそう、とか、かわいそう、とか、思わない。
それはとても厳かな景色です。
わたしたちはもっと「ひとりでいる状態」を「惑星状態」のように捉える必要があるのではないか。
煌々と輝く月を眺め、一瞬降りてきた不思議な感覚の名残を追いかけながら、わたしはそう思いました。

わたしは今日、家でひとりこれを書いているクリスマスイヴです。
全然さみしいと思わないのは、昨日家族でパーティをしたから?
少し体力が減っていて家が居心地いいから?

きっとそうじゃなくって、惑星としての「わたし」を大事にする時間の大切さをわかったからじゃないかな。

いつも、さみしくならないように仕事を入れて、賑やかなところで働いていたりした。なぜ寂しかったかって言うと、自分の恋人や好きな人はいつも他の愛するひとと時を過ごすから、その日に優先順位がはっきりしてしまうから、相手を好きな分だけさみしくて倍辛かったのだと思う。

誰かと「関わる」ことで「喜び」も「痛み」も自乗になっていく。だから人は「関わり」の中でこそ成長していく。そういう自覚的な痛みと向き合うこともまた、人生の醍醐味だと思うし、人間という生命体の持つ美しく儚く、恐ろしく悲しい、そして愛しい、予測されなかった側面の一つだと思う。
でも忘れてはならないことがある。
それは、人という生命体は「誰かと関わる」というアクション以前に、完璧で美しいまま存在している。Nothing lack. Nothing less.
その完全なる自分自身を見つめることからが、新しい意味での我々の生誕です。地球のように青々と、月のように煌々と、土星のようにどっしりと、太陽のようにパワフルに、存在したい。
そんなわけで今日は自己を現す黄色が強い記事になりました。黄色は第3チャクラです。学び、自己、スキル、自身との向き合いかた。

我々よ、おのおのに美しい惑星であれ。
気づきの前夜に。

メリークリスマス☆
ラララ世界で会いましょう。

嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ