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突先8. 太陽

これは単なるメモであって、今日ここに書くことはもう寓話のような、いやもはや寓話未満の、単なるわたしの人生における走り書きのようなものなので、とりあえず今は読者が限られた友人たちであるがいつかこれがどこが遠いところまで船出したとしても、このnoteは一種のファンタジーとして処理してもらいたい。つまり検証要らずであります、と前置きした上で、


(便宜上100円となっていますが明日あたりまで最後まで無料で読めます。100円投げ銭してくださった方には銀杏の秘密がもう一つわかるようになってます 笑)

瀬田川のふちにまします瀬織津姫の佐久奈度神社の、不思議な銀杏のその前で、わたしが受け取った言葉たちをつなぎ合わせると、太陽に紐づくのはやはり女性であり女神、けれどここで限定的に述べたいのは、女性、と言うよりもそれは子を産んだ「母」なのだった。
つまり天照大御神は、すべてを照らす、母と言えるのだった。
そして持統天皇の即位によって、日本が失ったものは2つの太陽だったのかもしれない。表向きに天照大御神という女神を掲げて、その後ろに二つの太陽(母)が隠れた。

ラララを読み進んでくれている人はわかると思うのだけれど、
天照大御神は実は男神で、その場合水の神様である瀬織津姫という女神が対で、または后として語られる説があり、瀬織津姫という神様がこうして、佐久奈度神社の主祭神として実在する以上、じゃあアマテラスってなんだったの? 実は男なの? などなど、尽きせぬ疑問が歴史好きの人たちのロマンをかきたてるのは当然であるし、わたしも純粋に真実はどこにあるのか知りたくて歴史の裏側に隠されてしまった瀬織津姫を追いかけて、この神社にたどり着いたわけなのだけど。

けれど歴史ロマンや真実や古代史のつじつまよりもこの神社を参拝してわたしに降りてきた大きなメッセージは、母そのものだったのである。

それは全く象徴的なことではなくて、奇遇にも、その瀬織津姫を祀ってある滋賀の神社が、母が勤めていた小学校の真ん前であるという意味の、母そのものであり、「佐久奈度神社って知っているか」と尋ねたら、
「えら知り」と言う可愛い造語が返ってきたんであって、笑、

初めて訪れた場所のそこかしこに、具体的に母を感じるからである。

この頃わたしはすでに東京に来て、この場所で母が働いている姿など一度も見ていないのだけれど、この神社を訪れたならばいろんなことを想像する。この神社に生徒を連れて来たのかな、とか、母がこんな「祓戸四神」が祀られている神社にちょくちょく来てくれていたから家族はいろいろ安泰だったのだろうかとか、そういうの。

冒頭の銀杏だって、母が「見て来なあかんで」というから気になって見たような感じで。

けれど、訪れた先にあるこういう、奇遇な巡り合わせというのは、わたしに対する大いなる”存在”のメッセージだとわたしは考える。

速い川の瀬で瀬織津姫を感じたあと「実に天照大御神とはなんなんだろうか」「なぜ瀬織津姫は封印されたのだろう」とか考えながら、銀杏の木のところまで歩いて来た。

けれど銀杏の木の前に立った時、わたしは、川の瀬では世界のことやら使命のことやら、大祓詞を唱えたりで必死で、とてもPersonalでとても大切なことをこの地に伝えるのを忘れていたことを思い出したのである。
それは「母と仲良くしてくれてありがとうございました」であり「この地で働く母と我が家族をお見守りいただきありがとうございました」という感謝の気持ち。

普段、細かいディディールまで想像しないけどここに来たら想像する。
祖母の世話や大叔母の世話や娘たちとのいろいろ、それらを朝からすませて母はこの場所に出勤してきては、今度は学校で、登校してくる子供たちを待っていたり、していたのだ。ささやかで、けれど愛に溢れた母の日々。
それらを目の当たりにすると、個人的な感謝が溢れて、この地に溢れる光は母そのものになっていく。

”そうです、太陽とは、かくあるもの”

そんな言葉が銀杏から聞こえた気がして、わたしは辻褄を度外視した場合、太陽神、つまり太陽と紐づくものは「女」であると確信した。
太陽は女神、けれど女性というより、
それはすなわち「母」という生きもの。

アラビヤでもそう言っていた、家の灯りをともす存在、それは家族を照らす存在、その灯(太陽)は女性です、と。

恋愛をベースに考えた場合、男女というのは太陽と月になぞらえることができると思う。けれど月は、子を産んだ途端、太陽になるのだ。
そして男は水になるのである。水がないと人間は生きていけない、つまり家族の命を司る存在として男は水になる。そして女は火になる。お母さんがいない家は、火が消えたようにさみしい。そのように神(火=カ 水=ミ)たちは、役割を交代して生きて来たのではないか。そしたらまた、太陽である母は、夫や子のために再び月になるのである、つまり「そこにいないような具合で陰からそっと見守る」こと。主張をせず、存在が隠蔽されても「それでいいのよあなたの健やかな日々のために」そう言ってくれる存在(神)が世の中にただ一人いるとしたら、それは母という存在である。
(ごめんなさい今回は、母になれなかった、母としての役割を果たせない、果たしてこなかった例外の母たちを省いて一般論で語りますね)

その時「封印」の謎もとけたような気がした。彼女(たち)はじぶんの名が表に出ないことを封印ともなんとも思っていないし、そして「封印」を解いて欲しいとも思っていないことも。なんのために彼女たちが日陰に、裏に移動したのか。それは表で光を浴び、光を発する、愛しい”誰か”を立てるため。だからもし持統天皇に瀬織津姫が隠蔽されたのだとしても、瀬織津姫が「原始太陽であった女性」ならば、きっと ”かくあったほうが何かとよいでしょう” ということで、きっと今それを解明して表に出して欲しいとも思っていないのだ。そんなことが銀杏を眺めているうちにすっと心に入ってきた。

だとしたら、ネットで見つけた ”とある説”
天照大神(女神)は岩戸隠れのあと、そっと瀬織津姫として岩戸から出てきて、天照大神(男神)の后となったという話も概念としてわからなくはないのだ。大きく照らし包みながら、時に陰からそっと、差出人のない支援をしてくれるのが「母」といういきものである。荷物に混ぜて、そっとお金を入れて送ってくれる、そしてそれをわざわざ大きな声で名乗ったりしない、それが母という女の一面である。

持統天皇が瀬織津姫の存在を消した時、二つの太陽が消えた。
わたしはそんな風に感じた。
まず瀬織津姫という太陽(女神)、そしてもう一つの太陽は持統天皇、うののさらら自身。先の天皇であった夫に尽くし、息子を守り即位させるために、持統天皇は女帝として、君臨した。女帝として君臨する世界に女性性は存在しない。彼女は家族を守るため男のようなものとして生きた。その時太陽が2つ消えた。けれど、裏を返せば、”かくあるほうがよいのであれば” とそっと歴史から消えた瀬織津姫も、愛する夫の遺志を継いで女を辞めた持統天皇も、もしかしたら極めて女神的な、太陽的な生き様だったのかもしれない。誰かを照らし温めるために本来の姿を沈めたという意味において。

けれど日没からしばし、その地表は母の体温に満ち、護られている。

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