ryuchellさんとpecoさんについて思うこと

pecoさんが「ボクらの時代」に出演されていたので、見た。それから、
ryuchell遺稿「多様な価値観を互いに認められる社会になってくれれば」最後に連載で伝えたかったこと

を読んだ。
生前のryuchell さんとpeco さんのことをほとんど見ていなかったので、これだけで、なにかをいうことは無謀だと思うけど。
まず、多様性とジェンダーアイデンティティについて。pecoさんは男でも女でもなんでもいいじゃない。
とぺえさんに言っていた。そうか、さいきんの多様性ってこういう意味なのか。
と新鮮。トランスジェンダーのわたしはノンバイナリで、男か女に縛られないという主張を込めているのですが。それは「どっちでもいい」のではないのです。「どちらでもない」に近い。トランスジェンダーの多くは、自分のアイデンティティにはこだわりがあって、それを「どっちでもいい」というまとめをされるのは、たぶんシスジェンダーの多くがするのですが。乱暴な感じがして違和感があった。よくある「みんな違ってみんないい」みたいな言い方と近いのかな。
それと、pecoさんによると、ryuchellさんはどんな考えも許す優しい人、本当の愛を持っていたらしいが。これは「神の愛」に近い考えで、もう亡くなられたのでこういうふうに思う神格化の作用に近いのかもしれない。でも、もしryuchellさん自身がそうあろうとしていたのであれば、ずいぶんとしんどかったのではないか。誰でも許すということは、「許せない人」ができる自分を許せなくなるのではないだろうか?
ryuchellさんの原稿からは、少なくともテレビ放映のpecoさんの話とは少しずれたものを感じた。わたしは人間が小さいのかもですが、少なくとも「トランスヘイター」を許すことはできない。それは自分が弱いことを知っているからで、生身の人間だから、それを許さないように枠にはめるのは辛い。そこまで大きな人間ではない。ここで言われる「多様性」って、マジョリティは言いがちですが、マイノリティには実はとてもしんどいのではないだろうか?

たぶん、わたしというトランスジェンダーは、死ぬほど自分自身の経験、内面を見つめて、一応ジェンダーアイデンティティはここだという、受け入れの覚悟を決めたので、「どっちでもいい」はないと。でも、そんなことを考えないでいい社会が「多様性」なんだろうな。それは理想だけど、そんな社会は程遠いような。

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