文芸部は眠らせないnote出張版 其の参
The Latest Mythology -vol.16-にて、矢口れんとさんが、拙作『少女蒐集家序説』(興味のある方はリンクをクリックしてみてください。小説ページへ飛びます)について、
「作者の地元に残る伝説を骨組みに、連載小説のプロローグを紡いでくださいました。洪水、滝、天狗、、、神話と民話の狭間の世界には独特な魅力があります。また冒頭には「水蛭子(ひるこ)」の語が登場しますが、忌み子が人の心を揺さぶるのはなぜでしょうか」
と、発言なさっていたのを受けて、〈忌み子が人の心を揺さぶるのはなぜか〉について、小説を書いたのが以下の『小説』になります。アンサー小説にして、連載小説の一挿話になっています。お馴染みになってしまった感はありますが、NOVEL DAYSにて連載中の『文芸部は眠らせない』の、第76話からの抜粋です。
それでは、どうぞ。
*******************
第76話 カーニバル文学
*******************
椅子の背もたれに体重をかけて、のけぞるような姿勢で、佐々山さんが僕に言う。
「山田くん、さぁ。さっき部長と話してたじゃない? 古典文学病の話」
僕はパソコンのキーボードを叩く手を止めて、佐々山さんを見る。
「うん。古典ばかり読むな、だってさ」
「でも、古典にはそれだけ魅力があるわけじゃない。だって、淘汰されて、残ってるのが古典文学なんだから」
「ああ、確かに、そうだね」
「それと、古典文学病に似たもので〈海外文学病〉ってのもあって」
「海外文学病? なにそれ」
「海外文学読み出すと国内の小説がかすんで見えちゃって、読めなくなっちゃうの。そりゃそうよね、特に海外の古典文学は〈世界の名作〉が流通してるんだから。アルティメット文学でしょ。それと、現代文学だとしても、研究家や特に批評やってるひとは海外文学にどっぷりな場合が多い傾向にあるわね」
「そんなもんかなぁ」
「そういえば、前に山田くんが書いた小説を、萌木部長がクリティークしたことがあるのよ」
「え? 僕、それ、知らない」
「山田くんが忌み子……いろんな意味で〈望まれていない子供〉……が、活躍する小説を書いて」
「ああ。コンテストの時に出した奴だ」
「その話がなんで胸を打つのだろうという話になって」
「胸を打ったんだね。嬉しいなぁ」
「もちろんそこには物語構造があったりする。貴種流離だったりマレビトだったりと、逆だけど共通していて〈異界〉の者が勲功を立て、〈秩序をもたらす〉話ではあるのよね。それがわたしの分析」
「なるほど」
「でも、部長はそこで、ソ連の批評家、ミハイル・バフチンの理論を援用していたわ」
「ミハイル・バフチン?」
「『ドストエフスキー』を分析した〈ポリフォニー〉の話が有名ね」
「そのバフチンてひとがどう繋がるの?」
「バフチンはカーニバル文学ってことを、言うのよね」
「ハンニバル?」
「カーニバルよ、バカ」
「ごめん」
「忌み子が心を揺さぶるのは、ミハイル・バフチンが分析したカーニバル文学の話が関係しているのでないか、と。バフチンのいうカーニバルとは中世のヨーロッパにあった祭りの一形態で、祭り中は貴賤、男女、老若、貧富などが全部逆さまになる。それは統治者だって免れず、逆転する。それを、バフチンは文学に見たの」
「それで?」
「要するに、〈望まれていない者〉が、〈そのとき〉に、みんなに〈望まれた者〉になる、という話ね」
「な、なるほど。えらいことになってきたぞ。……でも、さ。ここ、日本だよね。中世ヨーロッパとは違うじゃん」
「クリティーク……批評はどの小説にも対応できる〈汎用性の高い〉ものでなければならないじゃない、だって〈理論〉なんだから」
「理論……まあ、そうだね」
「ただ、やっぱりこれにも批判があるの。『西洋中心主義』だ! ってね」
「西洋中心主義、ねぇ」
「そこで出てきたのが『オリエンタリズム』という考え方。特に、サイードが書いたそのものずばりのタイトルの『オリエンタリズム』ってのがあるわ。ウィキ的には、1978年にエドワード・サイードによって発表された書籍であり、西洋における東洋趣味〈オリエンタリズム〉を思考様式として再定義し〈ポストコロニアル理論〉を確立した、とあるわね」
「ぽすところに……うう、舌がもつれる。えーっと。なんだって?」
「ポスコロとも略すひともいるわ。ポストコロニアリズム。要するに、旧植民地の思想よ」
「その発想がすでに西洋中心なんじゃないかな?」
「そうね。でも、それはミシェル・フーコーが言うところの『脱中心化』にも繋がる話ではあるのよね」
「脱中心化?」
「ウィキを参照しましょう。制度や秩序の中心から遠ざかり、逸脱すること。フランスの M =フーコーが現代社会と現代人の行動を特徴づけるために用いた語、とあるわ」
「うーん、西洋っていう中心から、遠ざかるのか。その逸脱の思想だ、って言うんだね」
「そうね。わたしが言いたかったのは、そういうこと。まあ、どのみち、カーニバル文学の理論で、捉えていたのよ、萌木部長は」
「僕の小説なんかのために……うぅ、嬉しい」
のけぞるような姿勢のまま、佐々山さんは、「はぁ~」と、ため息を出す。
「汎用性の高いのが、理論なのよ。どうにでもできるわよ……」
僕は薄ら笑いしてしまう。
「ですよねー…………」
「さて。珈琲でも飲みましょ」
「そうだね」
〈了〉
*****************
と、いうことで、付け加えることは特にないのですが(笑)、一応、僕は平凡社ライブラリーから出ているミハイル・バフチン『小説の言葉』と、ちくま文芸文庫から出ているバフチンの『ドストエフスキーの詩学』を読んで、覚えていることから、この話を組み立てました。この版では「カーニバル」と書いてあったと思うのですが、一般的に流布しているバフチンの翻訳用語でいうと『祝祭空間』と呼ばれているものですね。祝祭空間について、また、ポリフォニー文学についても、そのうち、連載で書きたいと思っていますが、note神話部といよいよ関係なくなってきてしまうので、興味のある方は、リンク先をブックマークでもしていただけると嬉しいです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?