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【note版集中講義:上】文芸部は眠らせない


ども、成瀬川るるせです。note神話部、今回は投稿サイトで連載中『文芸部は眠らせない』の中から、「執筆すること」とは「神学」に通じている、というエピソードを、ふたつ、紹介したく思い、このnote記事はその上巻となります。物書きの多くのひとが疑問に持たないような些細な話ではありますが、もともと近代文学の始まりとはなんだったか、に焦点が当たることになります。では、【note版集中講義:上】始まります。よろしくお願いします。それと、連載物なので、よくわからない箇所などあるかもしれません。それは連載を読んでいただきたい、ということでよろしくです(笑)。


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第111話 ありのままの自分【第一話】

「いろんな小説執筆作法があるけど、あまりに多いし言ってることみんな違ってて、作家によって真逆の書き方を推奨するから、どれを信じていいか、僕にはわからないや」

 オンボロクーラーが大きな音を立てて部室内に冷気を送るなかで、僕はそう言った。

いつの間にか、夏休みだ。

「ブンガクに賭ける夏休み。僕はいきなり壁にぶち当たった。どんな小説が〈当たる〉んだろう」

 そこまで言ったところで、佐々山さんのクスクス笑いが大爆笑に変わった。

「どんな本が一番売れるかなんて決まってるじゃない。どんな本を書けば売れるかについて書いた本が一番売れるわ。要するに、〈執筆でお金を稼ぐにはどうしたらいいか〉の本ね。お金とかダイエットとか筋トレとか自己啓発とか、〈他人を出し抜く〉本ね。間違いないわね。今、山田くんも〈どんな小説が当たるか〉っていう理由で悩んでたじゃないの。そういうのを食い物にするのがビジネスよ」

「容赦ない言い方だね、佐々山さん……」

「このトートロジーのような売れる本を作る方法を書いた本が売れる現象、どんな事柄にも似たようなこと言えるわよね」

 そこに、萌木部長。
「小説の書き方を教えることは需要がある。たくさんある、時が経つにつれて、書くことのハードルが下がったのだろう。それほどまでか、というくらいに需要があるのは事実だ。大学のゼミや名門サークルや、または専門学校などでなくても、そういった情報が商売になっていて、今までよりずいぶん〈教えること〉のマーケットが大きくなったように思うよ。教えるマーケット。それを作家の世界の〈専門学校化〉と呼び代えることも出来そうだな」

「専門学校化、かぁ」
 と、僕。

 佐々山さんが言う。
「もしくはカルチャーセンター化、ね」

「矮小化が止まらないね!」
「そうよ、山田くん。そして、講師は〈自分の成功体験〉をベースにひとに語るんだから、一人一人ケースが違ってるわ。教える内容もその講師によって全然違う方角を向くから、全員からおいしいところ全部をいただく、なんてどだい無理な話よ」
 佐々山さんは肩をすくめる。
 部長も、佐々山さんに賛成の意を表明し、
「そもそもが、講師の話を聴いてる側も、体よくメソッドを利用したいだけで、自分を曲げる気がさらさらない、って感じだしな。傾向と対策も一応考えるべきだと思うのだが、それよりも〈ありのままの自分を見て欲しい〉し、〈ありのままの自分は祝福されるに見合う人間である〉ので、〈成功しないなんておかしい〉という飛躍した思考に陥る」
 と、かなりきつい言い方をした。


 僕は言う。
「でもそれも部長や佐々山さんのいだいている〈偏見〉なんじゃないの?」

 萌木部長は「ふむ」と頷いてから繋げる。
「どれを選び取って、どれを〈それは偏見だ〉と言って〈切り捨てる〉か。それは個々人の判断に委ねられてる。おれはただ、反目し合う情報をまき散らされているこのなかで、どうしたらいいのか、の話をするための準備として、この話をしているだけだ」


 僕は部長に尋ねる。
「要するに、どういうことです?」
「その場その場においての傾向と対策。それはそのサークルに入り込むことを指すが、往々にしてある種の作家は本来の自分なる幻想の産物が求められている場所がきっとある、と思い、コンテストジプシーやプラットフォームジプシーになって彷徨って、結局どこにも居場所がなくなってしまうのさ」
「そうでしょうか」
「最適化は必ずしも必要じゃない。でも、頭の片隅に入れておくくらいはした方がいいと、おれは思うけどね」

 僕はクーラーのある天井近くの壁を見上げる。
 夏だ。
「その話、もうちょっと詳しく、明快にお願いします、萌木部長、それと佐々山さんも」


〈112話へ、つづく〉

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第112話 ありのままの自分【第二話】

 佐々山さんが、ミルクティーを淹れて飲む。
「わたし、ミルクティー好き」

「麻婆飯とミルクティーって、合うということか、佐々山?」
 部長が佐々山さんに茶々を入れる。

「ったく、どいつもこいつもわたしを麻婆飯の権化のように思いやがって!」

「違うのか?」

「違うわよ! うちの高校の学食で一番美味いと思えるのが麻婆飯ってだけよ」

 僕は気づく。
「あ。夏休み、学食やってないですよね」

「家から弁当持ってくるかコンビニ弁当。それに、どこかに食べに行くのも禁止されていないぞ」

「なるほど。佐々山さんは麻婆丼をコンビニで買うのかな?」

「なんでいかにも毎昼毎昼麻婆食べるみたいな言い方になるわけ」

「えー。じゃあなに食べるのさ」

「その問い、なんかおかしいからね、山田くん?」

「あ。佐々山さん、むっちゃ笑顔でこっち睨んでる…………」

「あーたーりーまーえーよー」

「うひいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃ」

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 休み時間。僕がストレッチをしていると、青島くんと月天くんの二人が会話をしていた。

「青島はさぁ。中学んとき、ゲームつくってたんだろ」

「あ? ああ、そうだぜ、月天」

「常闇の世界、インターネット。いや、リアルも闇深いけど、ウェブは常闇って言葉が似合うなぁって、ずっと思っててよ」

「ああ、まあ、そうだな。ちげーねぇ。常闇だ」

「おれのいる現実では、まず〈喋れること〉が前提になってるけど、ウェブはそれに関して代替的な〈異能〉も存分に発揮できる世界だよな。発揮できる〈異能力〉のフィールドが広いゆえに、闇もまた深く、常に闇の中みたいに思えるんだ」

「ああ。おれたちが戦った〈県下怨霊八貴族〉なんて、常闇の産物のような異能力者集団だったよな。それがまたどうした、月天?」

「いや。青島のつくったゲームの広報はウェブだったよな、と思ってな。ログが残ってるし。でもよ、おれはあまりウェブが信頼出来ない。ビデオゲームはどんどん進化していって取り残されちまうし、嫌ってても良いことないんだが、躊躇しちまうんよ、電脳の力を使ったものに関して」

「時代錯誤だ、とは言わねーぜ。アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著『〈帝国〉』における〈マルチチュード〉な生き方を最初に体現しちまったのは、『インターネット・ミーム』を駆使した宗教の原理主義組織だったのは間違いなく、そこからゼロ年代が始まったのも事実。〈インターネット統治〉が必要だという向きはその一件で再燃した。1996年の『サイバースペース独立宣言』が規制に反発した経緯があってこその電脳世界だが、今度はおそらく規制はある程度成功する。その規制は規律型権力ではなく、ミシェル・フーコー言うところの『生権力』が担うことになるんだろう。環境管理による権力。〈快・不快原則〉を基調としたそれは、テクノロジーによって、現実のものになりつつある」

「常闇の統治は可能か。可能だろうなぁ。スーパーフラットな世界が到来すんのかも、な」

 僕はコンビニで買ってきた麦茶を飲みながら、
「難しそうな話をしてるー」
 と思った。
 でも、この二人の会話もまた、〈広い意味での文学〉の話なんだよな。

「文学は奥が深いなぁ」
「はぁ? あんたが浅いだけよ、山田くん。浅薄なことで有名ですものねぇ」
「うぅ、酷いや、佐々山さん」

「で。話の続きを聞きたいんでしょ」

「そうなんだよ」


「お、部長がコンビニから戻ってきたわね。じゃ、話の続き、しましょうか」

「そうだね」

〈113話へ、つづく〉

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第113話 ありのままの自分【第三話】

「余裕のない時代になっていきているのだろうな」

 部長は言った。

「〈傾向や対策〉よりも〈実存的な問題〉を重視する作家が、〈専門学校化〉の〈反動〉で、増えたのかもしれない」

 佐々山さんは言う。

「それは違うんじゃない、先輩……あ、じゃなかった、えーと、部長」

「先輩で良いよ、佐々山」

「部長で通すわよ、先輩は今は部長ですからね! ゴホン。もう一度言うけど、それは違うんじゃないの、部長。たまたまメソッドや傾向と対策のサークルの中にいなくて、自分が己が実存的問題を抱えてそれをどうにかしたい人たちの中にいるから、そう思うんじゃないのかしら」

「ふぅむ、そうだな。実存的問題、つまり〈生きていること〉の問題系の只中で、それを隠さず執筆する、そういったタイプの作家たち」

「山田くんみたいなタイプの書き手ね」
 と、佐々山さん。

「え? 僕?」

「どう考えてもあんたみたいなタイプでしょうが。ったく、自覚しなさいよね」

「〈おまえにはなにも見えていない〉ってよく言われるよ」

「でしょうね。どういう文脈で言われてるのか不明だけど、なにも見えないし見ないわよね。人間のタイプとして、そういうタイプよ、山田くん。自分のことばかり見てる」

「あ、あはは……」
 頬を指でかく僕。その通り過ぎて恥ずかしい。

 部長が話を続ける。
「執筆を実存の問題と捉える作家は多い。むしろ、そっちがスタンダードだろう。そういう作家の多くは、着飾った自分を見せて褒められるのは虚飾そのものであって、ありのままの自分で勝負したい、と願う」

 僕が口を挟む。
「部長。でも、どこの新人賞や雑誌も、そのレーベルごとに特色があって、カラーに合わせないと難しいって話はこれまで何回もしてきましたよね。それが、……ありのままの自分?」

「いや、でも、正統的な小説の書き方ではあるんだよ、ありのままの自分を見せる、というのは」

「そうなんですか?」

「ああ。そうなんだ」


 佐々山さんがミルクティーを飲みながら言う。
「時代が巡って、やれ構造主義だ、ポスト構造主義だと言ってシスティマティックに流れていって〈型に嵌める〉ことが重視され、そのうちに書くことが芸術じゃなくて伝統工芸になって、〈専門学校化〉しちゃったから、今は失われていってしまっているけど、〈着飾らないありのままの自分を見せる〉のは近代文学の歴史に於いては正統的な書き方よねぇ」


「え? え? どういうこと?」
 僕は部長を見る。
 萌木部長もこっちを向く。

「おれも何回も同じ話ばかりしている気がするが……話を続けよう」


〈114話へ、続く〉

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第114話 ありのままの自分【第四話】

「いや、でも、正統的な小説の書き方ではあるんだよ、ありのままの自分を見せる、というのは」

 萌木部長が言う。


 佐々山さんも、
「〈着飾らないありのままの自分を見せる〉のは近代文学の歴史に於いては正統的な書き方よねぇ」
 と、頷く。

 きょとんとする僕。

 部長は言う。
「おれも何回も同じ話ばかりしている気がするが……話を続けよう」


 僕は、
「お願いします」
 と、部長と佐々山さんに頭を下げた。

 部長から、僕へ。
「承認欲求にも種類があって、着飾った自分が褒められて満たされるタイプもいるが、〈小説書き〉の多くは、ありのままの自分が認められないと嫌だ、という捻れたタイプが多い」

「捻れたタイプ? 着飾った方がストレートってことですか」

「そう。服装や髪型やらの付加価値で褒められて、でも〈こんなの本当のわたしではない!〉と絶望感に陥るタイプがいる。捻くれてるだろ、だって〈素の私〉なるものに興味を持ってくれるひとって、すくないだろうに。そうならないからこそファッションや化粧などはいつの時代だって重要なんだからな。発想が逆転してる。その、難しい〈ありのまま〉を認められたい『欲望』としての承認欲求。満たすにはハードルが高い」

 僕は部長を見て、首をかしげる。
「だけど、その〈素の自分〉、言い換えれば〈ありのままの自分〉、それを見せるのが近代文学の歴史に於いては正統的な書き方だって話なんですよね」

「そうだ。近代文学のはじめに、ジャン・ジャック・ルソー『告白録』がある。ルソーは、日本では明治時代初期の自由民権運動の頃に、『社会契約論』が大きな影響力を持ったのだが、それだけでなく。その一方で、この『告白禄』という〈文学〉が、明治時代後期、森鷗外がドイツ語訳からの抄訳を1891年に初出版して以降、日本近代文学の成立に強い影響を与えた」

「へ、へぇ。で、僕には意味がわかりませんが」

「そのルソーの『告白録』という〈小説〉が、〈自然主義文学〉の起こりではないか、とする説がある。おれもその説を採用している。この自然主義は、日本近代文学の成立に大きい影響を与えたが、それが例えば田山花袋の『布団』の内容のように、日本でガラパゴスしていくうちに奇形化していってしまった。それがそのうち〈私小説〉という日本の文学の一大ジャンルを形成することとなった。私小説の系譜は、今も続く」

「で、それがなにか。わからないです。どういうことなんです、部長?」


「『告白録』の内容は、世間の誤解を解くとともに、将来の人間研究の資料を提供しようという目的で書かれた。ルソーは自分の一生を、作家になる前とその後に分け、前半生を幸福な時代、後半生を不幸になった時代としてとらえていたが、作品にもそうした考え方が反映し、2部に分けられている。第1部の少年時代、青年時代の記述は、率直かつ詳細なもので、ときには卑しい行為や性的異常をも、はばかることもなく描いている。ユーモアあり悔恨あり、それが過ぎ去った時代をふたたび生きる喜びと混じり合い、読者を魅了する。第2部は、晩年の被害妄想の影響下に書かれたため、また、昔の友人たちへの遠慮からか、第1部と比較すると精彩を欠き、暗いものとなっている……と百科事典には書いてあるな」

「もしかしてその〈卑しい行為や性的異常〉が、日本の私小説の素となったとか?」

「山田、その通りだ。そして『告白録』は卑しいことも率直に書くし、被害妄想も率直に書く。まさに〈ありのままの自分〉を、〈包み隠さず〉に書いている」

「確かに、それは恥ずかしいし、プライドが邪魔をしますね。社会的最終回になることも考慮して書かないとならないし」

「そうなんだよ。近代文学が生まれたときの自然主義文学とは、要するに『懺悔』だ。特にその時期のヨーロッパで小説を書くというのは、〈一神教的な神との対話〉でもあるんだな。そこでは〈素直に告白、懺悔をする〉ことと小説を書くことがニアリーイコールになる。そう考えると、わかりやすいだろ」

「つまり、もともと近代文学とは着飾らない、ありのままの自分を素直に書くことが最初にあった、と」

「そういうことだ。だから、小説を書くことが己の〈実存の問題〉と重なる。スタンダードなんだ、ありのままの自分を書くということは」


 そこに佐々山さん。
「近代文学は騎士道物語の終焉によって訪れたの。最後の騎士道物語は騎士道物語の〈パロディ〉であったセルバンテスの『ドン・キホーテ』ね。騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別がつかなくなった男が、自らを遍歴の騎士と任じ、『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』と名乗って冒険の旅に出かける物語が、『ドン・キホーテ』なの」

「騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別がつかなくなった男……近代文学の萌芽がありそうだね」
 と、僕。

「その通りだわ」
 と、佐々山さん。


「実存的問題を抱える作家たち。〈構造〉の反動もあってか、再びそういう問題と向き合うことを重視した書き手が多くなった。それはもちろん、時代に〈余裕がなくなった〉ことも原因のひとつだ」
 部長がそう言うので、僕は、
「生老病死。生まれること、老いること、病むこと、死ぬことなんかの問題。それは生きることそのものの〈悩み〉でもあるんですよね」
 と、萌木部長に言う。
「生まれ出ずることによる悩みをどうアウトプットするか。その〈アウトプット〉こそが、書くことの問題であり悩みそのものなのだろうな」
 部長は乾いた笑い方をした。

「山田くんも部長もエキサイトしすぎよ。ある意味、そこらへんはどうでもいいんじゃないのかしら。作家には〈過信も必要〉だからよ。もっとも、手放しで自分を過信しすぎると結果が返ってこないときに、生きること自体をつらいと感じてしまう。悲鳴を上げてしまうひともいるでしょう。その〈実存的問題〉と上手く付き合っていかなきゃね」

 佐々山さんは、あっは、と笑った。

 僕もつられて笑う。


 基本的には、笑顔の絶えない部活なのだ、この文芸部は。
 ……光射す笑顔ならば、もっといいんだけど。
 今は〈余裕がない〉のかもしれないな。


〈了〉

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