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文芸部は眠らせないnote出張版 其の弐

*本作品はNOVEL DAYSに連載中の『文芸部は眠らせない』56話からの転載となります。解説は文末にあります。よろしくお願いします!!

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「知ることや覚えることの喜びを感じられるのが、勉強を長続きさせるための秘訣ですよね。小説の勉強でもそれは同じだと言える」

 僕がそう発言すると、
「山田くん、若いわねぇ」
 と、佐々山さんが湯飲みで茶をすすりながら僕を文字通り、茶化す。

 萌木部長は首を縦に振ってから、
「ふむ。ただ、〈知る〉ことについて、今後のことを考えて、言及する必要性があるな」
 と僕に返す。

「知ること、について?」

「そうだ。知ることについて、だ」

 月天くんと青島くんの二人は、パソコンに向かってキーボードを打っている。
 執筆中なのだ。

 部室。午後5時。
 外からは運動部のジョギングのかけ声が聞こえる。

 部室の蛍光灯に照らされながら、萌木部長は言う。

「知ること、知識を身につけることは、人生を有利にすることは確かだが、それは本当に知った者のしあわせにつながるのか。しあわせのために、知識は必ずしも必要であると言えるのか」


 佐々山さんは、
「間違った知識ほどろくなもんはないけど、今回はそういうことについてじゃ、ないわね」
 と、話をちゃっかり軌道に乗せるために、補助線を入れた。


「佐々山の言う通りだ。スピノザは『真実を知ることはしあわせである』と書いている。『真実』があるかどうかはさておき、本当に『知る』は『しあわせ』になるのか?」


 佐々山さんがぼそりとつぶやく。
「はぁ。スピノザが言うのならばその真実とやらは一神教の神のことね。でも、スピノザである故に、それは汎神論としての神、かしら」


「汎神論……神は遍在する、ということ。それによれば、自然の万物を知ることは、神を知ることと同じことだ、ということ。スピノザは『神の知』を『最高善』と呼んだ。その『最高善』に近づくことが、『知る』ことであり、しあわせなのだ、と定義した」


 茶をすすり、佐々山さんは、
「今日は萌木部長の一人語りのターンね。いいでしょう。付き合ってあげるわ」
 と、くすくす笑った。

「原因から結果を知るということは、その原因特有の特性を知ることと同義だ。自然のものごとを知れば知るほど、それだけ神の本質を知ることとなる。神の本質こそが万物の原因だから、ということで、だな。そして、〈神を知ること〉がイコールで〈最高善〉の内実なんだ」

 僕は首をひねった。
「部長の言ってることがよくわからないや」

 そこに佐々山さん。
「神を知ること自体が最高善で、最高善ていうのが、しあわせをつかむために必要だって話ね。あと、ものごとを知ることがイコールで神を知ろうとすることなのよ。スピノザにとっては、ね」


 部長は続ける。
「ウィキソースの旧約聖書『箴言』第2章9~12節を引用しよう」

 9 また、あなたは悟るだろう。 正義と裁きと公平はすべて幸いに導く、と。
 10 これは知恵が、あなたの心にはいり、知識があなたの魂に楽しみとなるからである。
 11 慎みはあなたを守り、悟りはあなたを保って、
 12 悪の道からあなたを救い、偽りをいう者から救う

「ソロモンの言葉ね」

「そうだ。神の知には倫理や政治の基準が含まれていて、倫理や政治はこの神の知から導き出される、と説いている。同上2章18節には『知恵は、これを捕える者には命の木である、これをしっかり捕える人はさいわいである』とある」


「山田くん、はい、お茶。熱いから気をつけてね」

「あ。ありがと、佐々山さ……熱っ!」

「あっは」
 笑う佐々山さん。

「おれたちがものごとの知を獲得し、それが知識になって現れるのを楽しむならば、そのときその自然の知は、倫理や本当の徳を教えてくれる。ソロモンの考えにしても、ひとが自然的な知性を養うならそのひとのしあわせや安らぎは決して〈運任せ〉ではなく、そのひと自身が内に持つ〈徳〉に支えられていることになる。スピノザによれば、運任せとは〈神の外なる助け〉であり、徳とは〈神の内なる助け〉だということなのだが。その徳に支えられたひとは、注意深く、積極的に活動し、よい配慮を怠らなく、自らを最大限うまく保てる、というのだよ」


「どういうこと? 佐々山さん。説明して」

「運任せじゃなく、知を知識となることを楽しむなら、それはそのひと自身の内側に持っている徳がそうしてるってわけ。そういうひとは知識によって自分を最大限に発揮できるっていうような意味よ。たぶん、ね」

「さて。ウィキソース新約聖書『ローマ人への手紙』第1章20節から」

『1:20神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない』

「これを言い直すと。『神にまつわる事柄は、たとえ隠されていても、その被造物である人間たちには世界の様々な根拠から知性を通じて知られているものだ。神の徳も、永遠にわたるその神々しさも、そのようにして知られる。従って彼らに逃げ道は残されていない』となる」

「部長、どうしちゃったんだろ? 佐々山さん、つまり、どういう意味?」

「世界の様々なことから知性ってものを通じて、〈神の徳〉がわかるようになっている。つまり、知性を知ることは万物のいろんなところを根拠に知ることができるわけ。それなのにそれを知らない、だなんて言うような逃げ道はないんだぜ、ってこと。つまり、〈知らなかったでは済まされない〉ってことよ」


「知らなかったでは済まされない……。怖ぇー。怖いよ、佐々山さん!」

「部長に言ってよ、そんなことは」


「この主張はつまりだな、〈愚か者たちの罰は愚かさ〉だということだ。賢くなれるように修正して生きていかない限り、悪いものから悪いものが生じるのは必然であり、揺るぎない心が伴う限り、良いものから良いものが生じるのも必然である、ということなんだな」


 佐々山さんは湯飲みから口を離し、
「中二病が発動してしまっているわよ、部長?」
 と、口元をゆがめた。


「ま。たまには、こんなのもいいだろうと思ってな。海外の古典文学はこれしか話題がないのか、ってくらい、神についてばかり語っているからな」

「萌木部長。僕、この話の結論が知りたいんですが?」

「知識に触れることは、神に触れることと同じことで、その神の知性に触れる方法は、世界の万物に様々なかたちであって、いろんなところでアクセスできるようになっているんだぜ、という話さ。アクセスする方法が至るところにあるのに、それにアクセスしない、なんて、知らなかったでは済まされないぜ、ということ。つまり、〈倫理〉や〈徳〉という側面から、やっぱり知ること、知識を身につけることは大切だったってことなんだよな。スピノザを信頼するなら、だがな」


 佐々山さんは付け加える。
「〈危険な思想家・スピノザ〉の言、だけどね」


「だな」


 そう言って、萌木部長は冷めた珈琲を一口、飲んだ。

 僕は、部室の窓から外を見た。
 そろそろ日が落ちそうだ。


〈了〉

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さて。今回はNOVEL DAYSにて連載中の『文芸部は眠らせない』から、スピノザについてのお話を抜粋しました。スピノザとは、オランダ・アムステルダムの哲学者です。ユダヤ人なのですが、シナゴーグ(〔集会を意味するギリシャ語から〕ユダヤ教徒の礼拝所。会堂。また、集会所を指す)を破門されて、ユダヤコミュニティから孤立しながら思索していった哲学者で、主著は死後出版の『エチカ』です。山川出版の倫理の教科書には〈神に酔える哲学者〉として紹介されています。彼は汎神論者です。万物すべて神が宿ってる、とします。が、そこでいう神は一神教の神なんですね。そういうわけで、すべてが神なら法悦っていうか、その神に酔いしれているのではないか、という(笑)。違うかな、今、想像で言ってます(笑)。

本文中の話題は、スピノザが神学について語っていることを、ベースに議論(ていうか、ほぼ一人語り)が進みます。まあ、要するに勉強しろ、という内容なんですけどね。なぜ勉強しないとならないか、と言ったときに、聖書を読めばわかるぜ、ちなみにおれの汎神論も正しいぜ、というわけです。ただこのお話、抜き出したところは神学についての部分だけで、スピノザがやばいのは、ここから政治論に向かうところなんですね。大きく出ます。ついったなどでは政治厨はやばいというのをネットネイティヴなみなさんならご存じでしょうけれども、コミュニティから孤立しながら大きく出るのは、たとえ書いてある本が匿名で出版されていたとはいえ、かなりやばいことになったと思います。

まあ、「それで、それのどこが『note神話部』につながるんだよ?」という話ですが、神話体系を語るだけではなく、「解釈」の話。これは今日的な問題で、ネグリ=ハートの哲学書『マルチチュード』は、グローバル社会を生き抜くために書かれたのに、実践をまっさきにしてしまったのは、結果的にはサラフィー・ジハード主義者であったのではないか、ということだったりなど、です。神話などは記述されているものが(基本的には)残っているとされているが故の、問題ですね(とはいえ、たとえば日本にも、何千年も前の口伝が、一子相伝で、門外不出で伝わっているらしい、という話を、司馬遼太郎が書いていました。余談ですが)。いや、スピノザを否定してるのではないですよ。グノーシスだって、カバラだって、まあ、なんていうか、いろんなところに作用しているので、共生していられれば、それに越したことはないのです。記述されているから、どうにか伝わっている。文章ということは、解釈の余地が生まれるし、そのひとつを信じるひとは、それを解釈だとは思わない、というねじれた構造を持った話です。

スピノザは、言論の自由、表現の自由がなくなると、道徳は乱れ、国家は立ちゆかなくなる、というところまで、今回の僕の書いた話の場所から、飛躍します。そこがエキサイティングなのですが、それはまた別の話。

長くなりました。今回も転載というかたちですみません。

この小説は現在、連載中ですので、よろしければ、読んでみてください。

でわでわ。また。成瀬川るるせでした!


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