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右手にブーツ左手にグローブ【サイドスタンド1】


 機械的な冷気が好きではない私は、アパート2階の自分の部屋の出窓に腰掛けて、開け放った玄関ドアから入る僅かな風を探していた。
 人通りも無く、裏の大きな欅の蝉も鳴き出せないのは暑さにやられているせいだ。

 揺らぐ蜃気楼が住宅街のやや傾斜のあるアスファルトを流れている。と、小さな岩か何かにぶつかったかのように緩やかな流れに小さな淀みが現れた。淀みはゆっくりと、太陽をまともに受けた反射光を放ちながら、波紋を残し進んでいる。
 何かとはオートバイとそれを押して歩いている男だと分かるには、反射のせいで時間がかかった。

 タンクはそれを押す人よりずっと幅が広い。大きなオートバイだ。ミラーが被っているのは黒いヘルメット。今日の空の色より濃い水色のシャツの袖を肩までたくしあげている。細めのジーンズにくるぶしを隠す丈の茶系のブーツは暑そうでしかない。

 何ともご苦労なことと思い、近付いてくる男を見た。20代前半くらいか。背が高く痩せている。ハンドルを握る赤いグローブから伸びた腕にも過剰な肉は付いていないが、オートバイを押す筋と血管は程よく緊張している。肩や腕、顔は今日の暑さのせいなのだろう。赤らんでいる。上からだと黒い前髪のせいで高い鼻筋と口元しか見えない。笑みを唇に浮かべている?辛くないのだろうか。

 彼が天空を仰ぎ、そのついでに私が視界に入ったようだ。

「あ~、すみません」

 周りに彼と会話が出来る生き物は私しかいないようだ。
「あの、お聞きしたいのですが」
「え?あたしですか?」
 彼は歩を止め、自分に指を指した私を見据え頷き、
「西芝公園って、この先ですよね?」と聞く。
「えと、そうですけどバスだと10分くらいの所です」
 あ、オートバイを押してる人に的外れな答え方をしてしまったと、自分の口が思わずへの字になった。
「バスで10分ですか、結構、ありますね」
「そ、そうです。あの、この道、あまり気付かないけど、ゆるい上り坂になってますよ」
「道理で!バイクが重くなったように思った。えーと、この辺りにコンビニありますか?」
「この住宅街には無いです。西芝公園を過ぎたところです」
「えー?そうなんですね。うわ、参ったな」彼はハンドルを掴んだまま、ガックリと肩を落とす。
「えと、あの、大丈夫ですか?」
「いや、あんまり、大丈夫じゃないです。修理屋が来るまで時間がかかりそうだったんで、少し押して行くと言ったら、西芝公園が近いって。とんでもないなっ!」
 言葉とは裏腹に今度は大きな口を開けてあははと笑った。私もつられて緊張が緩む。
「いやー、一挙に疲れた」
「あの、このアパートの裏が駐車場になっていて、6と書いてあるところ、あたしのですけど、車持ってないので、あの、木陰だと思うので」
 彼は一瞬目を丸くした後、
「この樹、遠くから見えてたけど、なっかなか近付かなくて。こんなおっきいんだもんね。ごめんなさい。少し休ませてもらいます。助かります」と、屈託ない笑顔と丁寧な言葉を返してくれた。
 汗だくの男に不快な思いは一切わかない。ここら辺をやかましい音をたてて走る変な形をしたオートバイではないし、悪い人間では無さそうだ。

 そのまま、窓際にいるのも何となく居心地も悪く、なにかしなきゃいけないだろうか、いや、何をするんだ。と、少しの間、部屋の中をウロウロと歩き回った。

 冷蔵庫にお茶のペットボトルがある事を思い出し、漫画のように手のひらを拳で叩いた。ボトルを手に取りサンダルをひっかけ、外階段を降りた。木陰になっている駐車スペースにオートバイを停め、車止めに腰掛けていた彼にお茶を差し出す。

「うわっ、これは嬉しいです。いただきます」
 蓋を開けペットボトルのお茶を一気に流し込む彼の喉仏を、汗がつたい落ちる。
 背が高くて、下から仰ぐように見上げた。木漏れ日がチラチラとやや長めの黒髪や長い睫毛にも降り注ぐ。10代の少年のようにも見える。
「喉、乾いていると思って」
「ほんと、そうです。生き返る!ありがとう!ここで、修理工場のトラック待っていいですか?」
「どうぞ。あ、緑丘町の加藤クリーニングの斜め向かいの大きな樹のあるアパートの駐車場と言えばわかると思いますよ」
 私の言葉を復唱した彼が
「どうも、ありがとうございます」とペコっと頭を下げた。

 しっかり会話が出来る、もう大人の人だ。おかげで、私はとても良い事をしたような幸せな気分で部屋に戻った。

 しばらくして、駐車場に大きな車のエンジン音が響き、「おまえさぁー!公園遠いんだよっ」という声に、喧嘩が始まるのかとドキドキしていたら、すぐに大笑いする声が聞こえた。覗くとトラックから降りた人とは、とても仲が良さそうだ。久しぶりに賑やかな会話を聞いたような気がする。

  少しして階段を登る足音が聞こえ、ドアが開いているのに律儀にノックした。私の返事で姿を現した彼が
「本当にありがとう。お世話になりました」と、大袈裟に頭を下げた。
「別にたいしたことではないです」
「いやいや、大いに助かりました。ありがとう」と、また頭を下げて、帰っていった。


 論文の骨子も出来上がり、ふうっと、一息ついた。

 一人暮らしももうすぐ終わる。地元の企業に内定が決まって、親も喜んだ。親が喜ぶと私も嬉しかった。そうやって、これからずっと私は生きて行く。

 あの日から、彼の木漏れ日の下の笑顔が脳裏に浮ぶ。何か負けてるような気がして、何故か悔しい。どうしてなんだろう。

 今日も蝉は静かだ。


サイドスタンド2


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