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窓一枚隔てた世界

 「食べ物を残すのではありません。世界には食べたくても食べられない子供だっているのよ」とは、親が子にしつけをする際のお決まりのセリフではないだろうか。小さい頃、このテンプレートのようなセリフを母が言うと、もうなかった食欲がさらに失せた。私の母はそれに気づいていたか分からないが、さほど頻繁にこの言葉を口にすることはなかった。それでも、今でもこの言葉を思い出すと少し胸がうずく。

 ナイロビにいた頃の私は、今の三分の一しか生きていない十歳の女の子だった。情勢としては安定していた時代だったが、それでもカージャックやスーパーへの強盗はよくあることで、私たちも徒歩で学校にいくということは二年間住んでいて一度もなかった。外国人が住むアパートから毎朝厳重な門をくぐり、私は妹と市内にある学校へと車で通学していた。

 朝は通勤ラッシュでナイロビの道路も忙しい。道中、人を拾いながら走るミニバンが日本からの中古だとすぐ分かるのは、○○株式会社、とか、「今日もあなたにハーモニー!」などと標語がそのままにされたドアが土ぼこりをかぶりながらも読めるからだ。そんな車を見ながら、寝坊した日にはパンやバナナをかじりながら、私たちは登校する。

 だが、食べ物をそっとカバンに戻す場所があった。それはアパートを出て最初に通り過ぎねばならない大きなジャンクションだ。ディーゼルの煙と、朝は冷えるナイロビで焚き木を燃やす灰がちらつくその場所で、多くの車が渋滞で止まる。先を急ぎたいバンがぷっぷーとクラッションを鳴らし、人々の怒声も時に聞こえる。多くの車が止まるがゆえに、そこはストリートチルドレンが集まる場所でもあったのだ。

 人数は多くない。でも、毎朝通れば、毎朝大体同じ子供たちがそこにはいる。彼らは止まっている車の窓をこんこんっと叩いては何か言う。こんこん、こんこん。だんだんと私よりは年下、妹よりは年上の、彼がこちらに近づいてくる。妹はまだ無邪気に彼とアイコンタクトを取れる年齢だった。私は下を向いて、彼と顔が合わないようにしていた。例え外から車の中は、ぼんやりとしか見えなくても。

 母は彼らに同情していた。同じ年ごろの娘を持つ身として、それは当たり前の感情だろう。だが、同い年の私は、彼らに同情という気持ちは湧かなかった。私が毎朝味わう感情は、「恥ずかしい」だった。

 彼と私の何が違うというのだろう。でも、車の窓一枚隔てた世界はあまりにも違った。車の中にいても匂う排気ガスの匂いは、外ならなおのこときついだろう。向こうで炊いている火にくべてあるのは、決してきれいな薪ではなく、中にはプラスチックごみも混ざっている。その周りで何か小瓶を鼻に充てている子供もいた。それは話に聞くところによると、食べ物より安く買えるシンナーだった。薄いカーディガンを制服の上に着ている私と、ぶかぶかのビーチサンダルで歩く彼では、感じる温度も違うだろう。何も悪いことはしていない。何も良いこともしていない。それなのにそこにあるその差を毎朝見るのが嫌だった。そこにいるだけで、恥ずかしくて、逃げ出したかった。そこさえ抜ければすぐに学校だが、そこで習う社会問題に対して大人は、「大きくなったらこうした貧困や環境問題に取り組みましょう」などと私たちに言う。それなら今すぐあの子をどうにかしてあそこから連れ出してくれ。今の私には何もできないのだから。

 私は大人になった。大学を出てからは一度会社勤めをしたが、やはり過去のあの窓一枚隔てた世界に対して、私ができることは何かないのだろうかと、開発学を学びに留学もした。そこでできた友人たちは賢明にあの世界に生きる人々に対して真摯に向き合っている。私はやや体調を崩し、今は日本で時折友人たちの仕事を手伝いながら生きている。残念ながら、世界を救う大人にはなれなかった。

 だが、窓一枚隔てた世界で苦しむ人というのは、どこにでもいることを知る大人ではあると思う。いつだって誰かの助けができたらと思う気持ちは、決して嘘ではないと思う。どうか、世界が良い方向へ進みますように。

#エッセイ #幼少期の思い出  

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