締切について
焦りが自身を襲うことがある。目前の事柄に対しての焦りは動悸が速くなり、より未来の事柄に対しての焦りは頭の片すみにこべりつく。
数分後の会議に遅刻しそうな時は、普段は軽んじることの多い一分一秒をまるで金の砂のように扱う。
異性との出会いがなく結婚への焦りが高まった時は、街中でベビーカーを見かける度に憂鬱な気持ちになる。
常にではないとはいえ、焦りの感情はしばしば僕達を辟易させるから、なるべくなら起こしたくないものだ。
多くの場合、締切が焦りを生む。それは明確ではなくとも、周囲との比較や社会常識によって勝手に生み出してしまう。
例えば、友人のだれそれはもう結婚した、女性なら20代の間に結婚すべき、などが仮想の締切を生む。
社会は締切を作るのが好きだ。多くの約束を作り、それを守ることが、立派な大人であるかのように振る舞う。
だが、多すぎる締切は焦りによる消耗や不安を募らすことはあれど、僕達にとって利益になるようなことは何もない。
締切があることで創造性が生まれる、などという者もいるが、それは締切と制限を区別せず考えている。
一定の制限を設けることで思考がより洗練されるのは間違いないが、制限は創造者が設けるものであって周囲に定義されるものではない。
締切がなければ集団行動や規律が守られず人々は怠惰になる、と考える者もいるが、それは締切を設ける側の論理だ。
近代の大量生産工場や戦時の軍隊の常識を神格化すべきではない。私達はロボットではなく意思を持つ人間なのだ。
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