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心照古教〜『大学』を考える〜【二二】

「國を治むるには、必ず先ず其の家を斉う」とは

本文

所謂いわゆる國を治むるには、必ず先ず其の家を斉うとは、
其の家おしからずして、
ひとを教うる者は之れ無し。
故に君子は家を出でずして、おしえを國に成す。
こうきみつかうる所以ゆえんなり。
ていちょうつかうる所以ゆえんなり。
しゅう使つか所以ゆえんなり。
康誥こうこうに曰わく、赤子せきしを保んずるが如しと。
心誠こころまことこれを求めば、
あたらずといえども遠からず、
未だ子を養うを學びてのち嫁ぐ者有らざるなり。

「大学」

訳文(我流の解釈)

八条目にいう、
「國を治むるには、必ず先ず其の家を斉う」というのは、

自分を取り巻く家族…
自分が影響を与える近親者もそうだが、
中でも生み育てた子供が、後世を担う礎であることを忘れて
外聞にばかり気を揉んでいるようでは、
その「外聞にかかずらって足元が疎かになっている姿」を
自分が「育成を担当している」子供に教えることになる。

本当に社会のためと思うなら、
次世代を担う自分の子供が社会に出たあとに、
どう振舞ってほしいかを自分がやって﹅﹅﹅﹅﹅﹅見せるしかない。

そのあり方を、子供がどう受け取るかは子供が決めることだが、
それを踏まえた上でも、
自分にできることをするしかない。
まずは、「しよう」とすることだ。

だから君子は、その在り方によって
家に居る時でも、国のために働いていると言える。

親に孝行を尽くす心がそのまま君主に仕える素地になり、
兄弟を大事にする心が、同僚や上司と協力し合える素地になり、
妻子を慈しむ心が、自分が統率する部下をよく使う素地になる。

書経の康誥篇には「赤子を育てるようなものだ」とあるが、
これは、
「国を治めることに関しても、
 一心になって政治に携わるならば、大きく道を逸れることはない。
 それは、
 家を出たことのない娘が、別の家に嫁ぎ、子を産んで育てることを
 事前に経験していないにも関わらず成し遂げていることからも
 よくわかる」
ということを言っている。

思うところ

私は現在、自分の家族というものを持っていないので
正直この一節の困難さも厳しさも、語ることができません。
上記の我流訳も、一単独者の視点で行った解釈になります。

最近、ダンバー数なるものを知りました。

ダンバー数(ダンバーすう、英: Dunbar’s number)とは、
人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限である。ここでいう関係とは、ある個人が、各人の事を知っていて、さらに、各人がお互いにどのような関係にあるのかをも知っている、というものを指す。 ダンバー数は、1990年代に、イギリスの人類学者であるロビン・ダンバーによって初めて提案された。彼は、霊長類の脳の大きさと平均的な群れの大きさとの間に相関関係を見出した。ダンバーは、平均的な人間の脳の大きさを計算し、霊長類の結果から推定する事によって、人間が円滑に安定して維持できる関係は150人程度であると提案した。

Wikipediaより

「5-15-50-150-500の法則」という考え方をすると、

5(〜9)人を「社会集団(クリーク)」といい、
これが最も親しい友人やパートナーの上限数になる。

(12〜)15人を「シンパシー・グループ」といい、
ほぼどのような状況下でも心から信頼できる人の数になる。

(30〜)50人を「一団(バンド)」といい、
危険地帯を安全に往来できるくらいの団結力が働くのは
このくらいの人数が上限になる。

150人を「フレンドシップ・グループ」といい、
共同体の中で一緒に暮らすのに最適な人数なんだとか。

500人を「部族・種族(トライブ)」といい、
出会うと会釈する程度の顔見知り…と認識できるのは
ここまで
らしいです。

ちなみに、
1500人になると「共同体(コミュニティ)」といい、
人間の長期記憶の情報数の限界、
頭の中で名前と顔が一致する人数がここまでになるそうです。

人間が認識している社会には、
愛情空間、政治空間、貨幣空間という区分があって、
これが当人を中心にして放射状形に広がっている
というお話も、思い出されます。

→一人が「誠を尽く」せる対象は限られている

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