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心照古教〜『大学』を考える〜【二十】

「やましさ」を分解してみる


まず、ヒトは「やましいこと」をした時、
まず(無意識であれ)自分自身を庇うために
そのことを正当化した言い訳を考えたり、
責任転嫁して他者を過剰に責めたりするんだと思っています。

そして、この「やましい」という感覚は、
平生自らのジャッジで
「それをしてはならない」と決めていることを、
うっかりないし必要に迫られて
やってしまった時に感じるものだと思います。

そんな、平生自分に戒めているはずの
「やましい」感覚になる行動をとるのは
どんな時かを想像してみると、

別のことに気もそぞろで回避できなかったとか、
それによって自分の身の安全を図りたい不安があるとか
平生無理してやっていたので、
疲弊してそれをする気力がなくなったとか

自分自身が設定した
「しっかりできている」状態でないときに
やりがちなんじゃないかと思います。
…「外界は思い通りにできるものじゃない」のは大前提として、
どういう心掛けでいるかと言う思考回路で喋っています。

これを「いまここの自分を疎かにしている」
と言うこともできるんですが、

そもそも
「しっかりできている」状態だけがOKで、
その戒めにくたびれて身動きが取れない状態さえも
それができていないと言うだけでNGを出すのは
酷だな、と思い至った今日この頃です。

ちなみに若い頃の私は、
この「しっかりできている」を
「自分をコントロールできている」
つまり、「特定の欲求を常に抑えつけられている」と履き違えて
ネット中毒(代償行為への依存)に陥った自分を責める
負のループに身を沈めた経験があります。

本来の欲求が疎かにされると、
代償行為でその不満を誤魔化しながらも
本来の欲求が満たされないために
代償行為の方を過剰に欲しがるようになるらしいんですよね。

いつまで経っても満たされない、
それがわかっているのに、いつまで経っても手放せない、
みたいな。

この経験から、
自分の欲求を無闇に「抑圧」するのは浅慮だという教訓を得ました。

ついでに、この自らのジャッジには、
「トラウマを拒絶したいという怒りないし恐怖ないし嫌悪感ないし不安によって形成されたもの」と、「居心地の悪い環境にいたくないという素直な感覚(倫理観)からくるもの」とが混在していることにも気づきました。

混ざっているから、
それを他者が存在する場で表出させるには注意が必要。

どうやって気をつければいいかについては、
自分の偏見を問い直す習慣を持つことで
ある程度対応できる。
仮に表出させてしまっても、
それを自覚できれば軌道修正も効きます。

ただ、
外界からの刺激に追われて余裕がなくなると、
自分を省みることがままならなくなるので
この偏見が浮き彫りになる。

そして、そういう場面は人生を通して
いくらでも起こりうるので、
なるべく余裕を保てるよう、
器はでかくしておきたい。

その上で、もし必要に迫られて
ガムシャラに無理を押して頑張ることになった時は、
「周囲への配慮ができない自分になる」ことも
覚悟しないといけないな
と思います。

…と、ここまで書いて気づいたのですが
無理をしないための工夫として
「他者に頼る」という方法があるんでしょうね。

一昨年あたりから
よく言われるようになりました。

これが私にとっては価値観の反転で、
いまだに自分の中に凝り固まっている
「自力でなんとかせねば」が強いです。

これも歪みの一つなんだと思います。

→「その家を斉うるには其身を修むるにあり」とは

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