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心照古教〜『大学』を考える〜【二九】

君子は誠実に、かつ、ゆったりと構えている

本文

詩に云わく、樂只らくしの君子は民の父母ふぼと。
民のこのむ所これを好み、民のにくむ所之を惡む。
これれ民の父母とう。

詩に云わく、せつたる南山なんざんいし巖巖がんがんたり。
赫赫かくかくたる師尹しいんたみともなんじると。
國をたもつ者はもっつつしまざるからず。
へきすればすなわち天下のりくとなる。

「大学」

我流訳文

『詩経』小雅しょうがの南山有台篇には、
「徳が豊かで常に心に楽しみを抱いている君主は、
民の父母に等しい」とある。

君主は天下の民を
我が子のように視ているので、

慈父母が我が子を愛するように
民が嫌がることを悪み、
民が好むことを好む。

これを「民の父母」という。

『詩経』小雅の節南山篇には、
「雄大で厳かにそびえ立つかの南山は、巨大な岩石が積み重なっている。
権勢赫赫かくかくたる太師(周代最高の官位)であるいん氏を、民はひとしく仰ぎ見ている」と。
(にもかかわらず、
 尹氏は一己の私に流れて国政の要職に近親者ばかりを挙用した。
 これによって、国政は尹氏の独擅場となり、
 人民は塗炭の苦しみに呻吟することになった。)

上に立つ者の一挙手一投足は、人びとの仰ぎ見るところであるから、
国政に任ずる者は慎重でなければならない。
絜矩の道を踏み外して、一己の好悪に偏るならば、
ついには天下の刑戮にかかる辱めを免れないだろう。

思うところ

へきすればすなわち天下のりくとなる」
が大変身に迫ります。

「辟する」とはどういう状態かを考えてみると、
私が思いつくのは「排他意識」です。
自分を取り巻く世界に、
「敵がいる」と認識している状態なんだと思います。

実は、私たちの世界の捉え方は、次のような3つの層で成り立っています。

・世界観…世界をどのように捉えているか
自分が知らない地域や会ったことのない人たちも含まれる。
・社会観…自分の属する社会をどのように捉えているか
自分が住んでいる場所や関わりのある人、組織などが含まれる。
・人生観…自分の人生をどのように捉えているか
人生に対する価値観。過去や未来に対する認識。
自分自身に対する認識・自己像。

「世界は危険で、安心できない」「世界は敵だ」
「人生は簡単にはうまくいかない」
「自分は誰からも愛されていない」…。
そういった思い込みがあると、その通りの現実ができあがります。人間には、自分の思い込みを現実化するために最適な自分を演じようとする性質があるからです。
 私たちは、自分の世界観を現実化するために最適な思考パターンやコミュニケーションのパターンを身につけます。また、世界観を確認するために、同じ考えの人とつきあったり、似たような人たちの言葉を信じたりします。
 ですから、世界観が変わらなければ、いったんは結果を出しても必ずリバウンドして引き戻されてしまいます。時間と労力を消耗して、「やっぱり自分はダメなんだ」と考え、ますます過去の世界観を強化していくのです。

「【強運な人は知っている】…うまくいかない時に変えるべき、残念すぎる思い込みとは」

私自身を振り返ると、
「世界は敵」認識を最も強くしていたのは
前職を退職する前後の期間です。

退職願を出すと決めた日から、
引き継ぎのために息を止めながら出勤していたおおよそ半年間と
自分の精神的・身体的消耗を顧みずに
次の環境を求めて「とりあえず動く」状態になっていた1年半くらいです。

昨年の下旬まで、この名残がありました。

この間、内観や瞑想、感情をノートに書き出すということを
意識的にするようになり、
自分を突き動かしているものが「怒り」と「焦り」だと
徐々に自覚していきました。

私が「天下のりくとなったのは、
「おてつたび」に挑戦した中でのことです。

自分の表層意識の上では

「自分が成長する場を借りて学び、
 そこで培った力を発揮することで還元したい」
「前職でだって、私は私の誠実さを通すことができていた」
「環境が違っただけ。」
「もう1年もあの職場から離れている、
 もう回復していてもいい頃合いだ」

と、前向きな意識で挑んだのですが、

実際にお手伝いに伺った際に
私の中で何が起こったかというと、

それまで自分を支えていた
「情報を積極的に取り込む気力」は湧かないし
自慢だった「集中力」も冴えず
過去の嫌な記憶に思考が呑まれる始末でした。

きっと受け入れ先の方や同じ旅人の方も、
短期間の付き合いだからと
許してくれていたのではないかと
情けなさに落ち込みました。

この落ち込みによって、

「口先ばかりで実力がないやつ」認定されることが、
それまでの私にとって「こうなるくらいなら死ぬ」レベルの
避けたい事態だったことに気づきました。

私は、自分が無力な状態にいると認めたくなくて
一度力尽きたのにも関わらず、休むことを蔑ろにして
次の仕事を求めて血眼になっていたのかもしれない。

自分の「前向きな社会貢献意欲」が
「ヒーロー願望入り混じるエゴ」と紙一重だった可能性に
背筋を凍らすことになった一連の経験ののち、

わりとすぐに空海さんから「自利利他」の諫言が入り、
「忘己利他と自利利他のちがい」を考察するに至りました。

今回も取り止めのないお話になってしまいましたが、
あえてまとめるなら

過ちによって首を刎ねられる立場でなくて命拾いした
というお話です。

→徳は本なり、財は末なり


知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。