見出し画像

心照古教〜『大学』を考える〜【四】

己を修めて、国を治めるための人間学


『大学』の出だしは、
「明徳を明らかにするにあり。」の後に
「民に親しむにあり、至善に止するにあり」と続きます。

これは、

大学の三綱領さんこうりょう

と呼ばれていて、
『大学』の教えを学ぶ眼目、主眼、重点、要点…
「なんのために、『大学』を学ぶのか」
それが、この3つに集約されると言うことだと思います。

大学の内容は、自分自身をますます修めていくとともに、
他にも良い影響を及ぼすことができる
ように学んでいくことであって、
いわゆる「修己治人しゅうこちじんの学」を大学というのです。

伊輿田覺『「大学」を味読する 己を修め人を治める道』

私は、
「大人」とはつまり、
自身の明徳を燈にして、一隅を照らせる人
と言うことだと受け取っています。


民に親しむにあり

明徳が明らかになると、
世の上に立つ人であれば、直接関係のない人であっても、
おのずから一体感を感ずるようになると言うのです。
そういう直接に関係のないところまで
一体感を感じて処置していくのが「親しむ」
だから、「明徳を明らかにし、民に親しむ」とは別個のものではなく、
一つのものであります。
こうした親心を持てる人のことを「大人」と言います。

スネをかじられながらも、我が子のため、我が家族のために
惜しげもなく稼いだ汗の結晶を投げ出す父親を「家大人かたいじん
会社と我とが一体であると感じる人は「会社大人かいしゃたいじん
会社と自分とは運命共同体だ、一体だと感じる人
は、
悪くなった時にこそ、どうすればいいかと考える。
地位は低くても、
会社と一体であると感じる人がその会社の大人「会社大人」
なのです。
いくら地位が高くても、自分の出世のためとか、
自分の単なる生活のためとかいうことだけで生きている人は
小人にすぎない。

伊輿田覺『「大学」を味読する 己を修め人を治める道』

「理想」へのこだわりもまた、不調和を生み出す

この伊輿田先生の解釈に
修行時代の自分を照らし合わせてみると、

「会社大人」になろうともがいた“なり損ない”

といった感じだと思います…。

会社のために率先して働いてはいましたが、
本当にその会社と一体化していたとは言えなかったと思います。

私がしたかったのは、
私の描いた理想の体現だったんだろうと、
今となっては振り返っています。

なぜなら、
同僚や上司に「小人的な振る舞い」を見出した時、
私自身が元気なうちは、
事実を受け入れた上で自分にできることを模索していましたが、
似たような状況が続いて次第に自分が追い詰められてくると、

こんなやつらにぶらさがられるのはもうごめんだ、
自分の足で立たんか横着者おうちゃくもの
自業自得で地獄に沈んだらいいのに、

みたいな嫌悪感に支配されたので…。

私もまだまだ小人の域を出なかったということです。

だから、上司からかけられた言葉が
まるで見当違いだと感じても、反論する気にならなかった。
ただ私の感覚がここに合わないというだけだと決めて、
離れることを選んだ。

会社と一体化できていたら、きっともっと粘ったはずです。
一体化したら腐ると思ったからあっさり離れたんですけど。

この辺は、半生を通して重ねてきた
「理論武装」と「心への打撃」のミルフィーユで
カウンセラーさんから「複雑骨折」と言われた箇所に
触れる部分なので、
まだちょっとうみが残っているかもしれません…。
お口が悪くなったら申し訳ない。

「調和」を"絶対的な善"の境地と考えてみる

知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。