2024年5月3日、和歌山県の三石不動尊にて
「辻政信氏と七人の僧 ならびに第二次大戦A級戦犯の方々」の
慰霊祭が執り行われます。
三石不動尊では
毎年恒例で、5月3日に
不動瀧を拝する慰霊祭をされているようなのですが、
奇しくもこの日は、
辻政信氏のお父上のご命日でもあったようです。
今年(2024年)の1月14日に
「辻政信」氏についての調査考察を頼まれて以降、
彼についての書籍や、彼自身の著作を頼りに
考察を進めて参りました。
三石不動尊では、辻政信氏のことをきっかけに
その後も、慰霊を求めて
A級戦犯の軍人さんや戦没者の御霊が
集まってこられたため、
彼ら全員のための祈りの場となるようです。
私は当初お受けしたお話しの通りに、
辻政信氏を専任する心算でここまで来ました。
わかっていることよりも、
わからないままのことばかりが
増えていっているように思えますが、
3月19日には慰霊祭の開白法要が行われるということで
一つの節目を迎えるものと思い、
これまでに得た情報をまとめて
自分なりの解釈をここに記そうと思います。
これは中間報告です。
辻政信氏の調査考察 : 「失踪」という最期
失踪の事情
辻氏の奥様が、昭和40年(辻氏失踪後)に書かれた
新装版『潜行三千里』のまえがきに、
辻氏が海外視察に出向いた理由を慮る一文がありました。
辻氏は、
精力的な執筆活動•講演活動のなかで
「中立論」という理想の実現を目指していた。
大陸の新興国にその必要性が「あるに違いない」と信じて、
中国大陸に再び足を踏み入れた。
奥様は、辻氏が消息を立って4年が経ったあと
そのように解釈しています。
掲げた理想
辻氏が唱えた「中立論」とは、
具体的にどういったものだったのでしょうか。
「中立」の文字が見える著書を2冊見つけました。
1952年に出版された『自衛中立』と、
1961年に初版発行された『中立の条件』です。
『中立の条件』に至っては、1961年という
辻氏が失踪した年に出版されています。
『潜行三千里』をはじめとする数多の著書を出版されて
15年が経った晩年に、何を考えていらっしゃったのか
その手がかりになるのではと期待できます。
手に入り次第、目を通したい文献です。
とはいえ、未入手のため
いまは
辻氏が前半生を振り返り、語るということをされていた
1950年代の著書を読んでいます。
1度目の中国大陸潜行ーー『潜行三千里』
辻氏は、
1945年(昭和20年)8月15日の正午に流れた玉音放送を
タイ•バンコクの十八方面軍の司令部の地下室で聞いたそうです。
軍司令部最後の会議で
上官から「潜行」を頼まれ、
自らも望んでタイへの潜伏を選んだと『潜行三千里』には記されています。
私がお寺でお世話になっている間、
住職さんがタイに旅に出られることがありました。
住職さんは、辻氏が最初に潜伏していた
リャープ寺(ワット・ラチャブラナラー・ ウォラウィハーン)
に滞在されたということで
私も、過去にこのリャープ寺の日本人納骨堂を訪れられた方の
ブログで、情報を得ていました。
感覚的に読んでみると、
といったところでしょうか。
もともと、一番最初の潜伏先にタイを選んだのには
同盟国だったタイへの親しみと思い入れが強く影響していると思われます。
辻氏の生家は、
炭焼きを生業とする在家ではありましたが
浄土真宗の道場として
地域の寺院の役割を担っており
信心深い仏教徒の家だったようです。
僧侶が馴染み深い存在だったからこそ
リャープ寺潜伏中は僧侶になりすまして過ごすことができていた。
戦没者たちへの弔いに念仏も唱えていたそうです。
1961年に失踪する直前、
最後に日本人に目撃された姿もまた僧侶の姿だった
ということからも、
仏道への信心が辻氏にとって大きなものだったのは
間違いないように思えます。
ただ、辻氏は
リャープ寺の日本人納骨堂に見切りをつけ
中国に亡命する決意をします。
タイでの潜伏の顛末を、彼は以下のように書き残しています。
辻氏はその後、
スリオン街(スラウォン通り)にあるとされた
中国国民党のスパイ組織「藍衣社」の事務所を訪れ、
自身の有益性を売り込んで彼らに亡命を助けてもらい
中国への入国に成功しました。
『潜行三千里』では、
タイとラオスの国境にあるウボンの街から
メコン河の国境の渡河点までをつなぐバス(木炭自動車)に乗って移動し
国境の関門で行われた臨時検査をうまく誤魔化して
丸木舟に乗ってメコン河を渡り
フランス領インドシナに入った…という描写がありました。
そこから重慶、南京と移動し
中国国民党に協力したのち、上海から
日本の佐世保までを船で渡って
帰って来られたそうです。
その後、GHQの追及が解除されたのを機に、
潜伏中に書き溜めていた原稿を出版という形で
公にしていきました。
これによって「時の人」となった辻氏は
「あの頑固な辻が、田辺の言うことは、素直にきいた。
相識り、相信ずる、まさしく知己の真情である」
と評されたご友人に引き止められながらも、
生来の気質上、不向きと思われる「政治家」の道に進んでいきます。
15年後、現職議員として向かった海外視察
まず、辻氏は何のために
十五年越しに大陸に舞い戻ったのか。
私が一番最初に辻氏を知るために手にした
前田啓介氏の『辻政信の真実』では、
すでにその理由が特定されていました。
それは、
「ベトナム戦争を目前に、ハノイでホー・チ・ミンと会談し、
ベトナム戦争を止めることはできないにしても、
それに関する情報を得て、
まもなく渡米する池田首相の「お土産」とする計画を持っていた」
というもの。
謎の多い失踪前後の足跡については、
この『辻政信の真実』にすっかり頼っています。
私が三週間お世話になったお寺の住職さんには、
巫覡的な一面もおありだそうで
ラオスの「メコン川」が
辻政信氏の死に関わっているとおっしゃっていました。
辻氏の奥様の書き様を見るに、
消息を立ったのは「首都ヴィエンチャン近郊」。
そして、私が理解のためにおおいに頼ってきた
前田啓介著『辻政信の真実』にある図解によれば
ハンビエンやジャール平原を通ってベトナムへ入り
中国へ向かうルートが推測されている。
これに関して、
今の私にはいまいちピンとくるものが無いので
いずれ点と点がつながっていくことを待つよりほかないと判断し、
ひとまず記すのみにしておきます。
私が感じたこと
慰霊祭を執行される僧侶の方は、
私がお世話になったお寺の住職さんだけではありません。
参加される皆さまが、慰霊にあたって
辻政信氏の晩年の事情に、
それぞれ思いを馳せていることを
住職さんから伺いました。
そのなかで
「辻政信氏は自殺したのではないか」という推測が
されていたらしいことも耳にしました。
これに関して、私はこれまでに知った情報を元に
「辻政信氏が
仕事を自殺に使うような
無責任をする人には思えない」
という意見を持っています。
ただ、『辻政信の真実』に書かれている以下の推察には
信憑性を感じています。
実兄や、兄と慕った上官が先に迎えた天寿の歳に
自らが近づきつつあることを気にされていたのなら、
己の一生を俯瞰して、
「いかに死にたいか」という引き際について
ふと考えることもあったと思います。
それは希死念慮や自殺念慮とは別物の、
「いずれくるであろう終わり方をどうするか」という
備えの感覚だと思います。
上記にある回顧の言葉には、
辻氏の葛藤と諦観が滲んでいるように思えます。
一生を悔いのないものにするために、
いま必要だと思った行動に、生来自らを支えてきた
「意気軒昂」を発揮して飛び込んだのかもしれないし、
迫る死期に、「いかに死ぬか」を計した結果
ここでなら死んでも良いと、戦線を選んだのかもしれない。
死ぬ気で勉学に励んで陸軍幼年学校に入学してから
三十年、軍人として死地を生き抜いてきた方ですから
生死の問題は、
安全圏から観念を捏ね回すだけに終始しかねない現代人
の感覚よりも、よほど精錬された覚悟をお持ちだと思います。
何を求めれば、辻氏の慰めになるのか
私には想像することしかできません。
この調査考察が、辻氏の御魂にとって
ほんとうの意味での救済になってくれることを心から願っています。
2024年3月16日 拝