心照古教〜『大学』を考える〜【二三】
一人が「誠を尽く」せる対象は限られている
愛情空間・政治空間・貨幣空間
これを知った時、真っ先に思い浮かんだのは
「そうか、今はネットがあるから貨幣空間でも生きられるんだ」
です。
「政治空間にどっぷり浸っていたから苦しかったんだ」
とも思いました。
…『大学』の教えの逆を行っていますよね(汗
当時にすれば、
つい数ヶ月前までは「大学」の素読をしていたはずんですが、
実際に自分の身の振り方を考えるにあたって、
この教えに忠実にはいられませんでした…。
私は一度、地元に骨を埋めるつもりになったことがあります。
でも、そう気負って5年のたうちまわった結果、
「ここには敵が集結している」という感覚を強くしました。
「敵」イメージを具体的に言語化しようとすると、
「一方的かつ私的に私を消費しようとしてくる人」を指します。
クレクレ星人とかフレネミーとか、厚かましい系の人です。
その後、遅まきながら
必要性を感じていろいろなSNSに手をつけはじめました。
それまでは、「変な人に自ら関わりに行く危険行為」
という偏見の塊ならではの認識を持っていたのですが、
顔を合わせる人間が「敵」に見えて仕方ない時、
こういう繋がりが救いになるのかもしれない
ということに気づきました。
「親しむ」ことが恐い理由
私の場合、
子供の頃に
「いつも楽しそうに笑っている」と
好印象を抱いた人と同居をはじめ、
同じ家で過ごすうちに
「この人が楽しそうなのは、
自分が楽しくいるために
親しい人を犠牲にしているからだ」
とわかったことで、
「親しくなると相手を憎まなくてはならなくなる」
「人を好きでい続けたいなら、
好きでいられる面だけが見える位置にいること。
適度に距離をとっておくことが必要」
という教訓を得ました。
(こどもらしい極端な理論ではありますが)
今現在の私は、
自分自身が人と親しくなることを避ける傾向がある
ことを自覚していて
でも、それによって
穏やかな時間と、
お互いの人生を尊重し合える少数の友人と、
自分を省みて納得できる思考習慣
を持つことができたとも思っています。
誠実であること=「愛するということ」…だとして。
エーリッヒ・フロムの『愛するということ』に、
身に迫る言葉の連なりがありました。
私が「忘己利他」と呼んだものの実態をあらわしていると感じました。
義務感ではなく、体感からくる「誠」がどんなものかを知りたくて
「自分が本当はどう感じているのか」を優先させてきたのがこの2年。
それ以前の、理想の姿を目指して努力していた時に
身をもって感じた一つの経験則が
反感をもった対象に「親心」を持とうとすると凄まじく消耗する
ということです。
それを実感しながら、意地で努力をした時期がありました。
そして、
「結局、徒労だったよな」というのが、
当時を振り返った等身大の私の感想なんですよね。
だって、まったくちがう理で生きてるんですもん。
ただ肉体が物理的に周辺にあるという理由で、
違う世界観で生きている人からの攻撃に耐えながら
無理やり調和しようと苦労するより、
自分が「居心地のいい」と実感する人を
大切にする方が自然なんではないかと思いました。
それができるくらい、
人間の行動範囲が広がっているのが現代ではないでしょうか。
→誠実に向き合うには膨大なエネルギーを要する
知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。