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心照古教〜『大学』を考える〜【二三】

一人が「誠を尽く」せる対象は限られている

愛情空間・政治空間・貨幣空間

私たちの「つながり」は、
大きく「愛情空間」「友情空間」「貨幣空間」の三層に分かれている。
愛情空間は親子や配偶者、パートナー(恋人)との親密な関係、
友情空間は「親友」を核として最大で150人くらいの「知り合い」の世界、貨幣空間はその外側に広がる、金銭のやり取りだけを介してつながる茫漠とした世界だ。
愛情空間は愛憎入り混じる関係で、
友情空間は権謀術数の「政治空間」でもある。
そこではさまざまな権力闘争が繰り広げられる。
「親友」が重要なのは、魑魅魍魎の政治空間を生き延びるには
「ぜったい裏切らない仲間」がどうしても必要だからだ。
それに対して貨幣空間はネットで商品を購入するような関係で、
愛憎もなければ連帯や裏切りもなく、
ルールどおりにすれば決められた結果が返ってくる。

孤独の正体 現代社会において必然的に「友だちがいなくなる」構図


これを知った時、真っ先に思い浮かんだのは

「そうか、今はネットがあるから貨幣空間でも生きられるんだ」

です。

「政治空間にどっぷり浸っていたから苦しかったんだ」

とも思いました。

…『大学』の教えの逆を行っていますよね(汗
当時にすれば、
つい数ヶ月前までは「大学」の素読をしていたはずんですが、
実際に自分の身の振り方を考えるにあたって、
この教えに忠実にはいられませんでした…。

私は一度、地元に骨を埋めるつもりになったことがあります。
でも、そう気負って5年のたうちまわった結果、
「ここには敵が集結している」という感覚を強くしました。
「敵」イメージを具体的に言語化しようとすると、
「一方的かつ私的に私を消費しようとしてくる人」を指します。
クレクレ星人とかフレネミーとか、厚かましい系の人です。

その後、遅まきながら
必要性を感じていろいろなSNSに手をつけはじめました。

それまでは、「変な人に自ら関わりに行く危険行為」
という偏見の塊ならではの認識を持っていたのですが、

顔を合わせる人間が「敵」に見えて仕方ない時、
こういう繋がりが救いになるのかもしれない
ということに気づきました。

「親しむ」ことが恐い理由

私の場合、
子供の頃に
「いつも楽しそうに笑っている」と
好印象を抱いた人と同居をはじめ、
同じ家で過ごすうちに

「この人が楽しそうなのは、
 自分が楽しくいるために
 親しい人を犠牲にしているからだ」

とわかったことで、

親しくなると相手を憎まなくてはならなくなる

人を好きでい続けたいなら、
 好きでいられる面だけが見える位置にいること。
 適度に距離をとっておくことが必要


という教訓を得ました。
(こどもらしい極端な理論ではありますが)

今現在の私は、
自分自身が人と親しくなることを避ける傾向がある
ことを自覚していて

でも、それによって
穏やかな時間と、
お互いの人生を尊重し合える少数の友人と、
自分を省みて納得できる思考習慣
を持つことができたとも思っています。

誠実であること=「愛するということ」…だとして。

エーリッヒ・フロムの『愛するということ』に、
身に迫る言葉の連なりがありました。

「非利己的な」人は「自分のためには何も欲しがらず」、
「他人のためだけに生き」、自分を大事に思わないことを誇りにしている
ところが、非利己的であるのに幸福にはなれず、ごく親しい人びととの関係にも満足できないので、当惑している。

そういう人は、愛する能力や何かを楽しむ能力が麻痺まひしており、
人生にたいする憎悪に満ちている

見かけの非利己主義のすぐ後ろには、かすかな、だが同じくらい強烈な自己中心主義が隠れている。

非利己主義の本質がいちばんはっきりとあらわれているのは、
それが他人におよぼす影響、とくに現代社会においては「非利己的な」母親がその子どもにおよぼす影響のなかである。
そういう母親は信じている。
「子供は母親の非利己主義を見て、愛されるとはどういうことなのか、
さらには愛するとはどういうことなのかを学ぶに違いない」と。
ところが、母親の非利己主義は、期待どおりの影響は及ぼさない。
そういう母親に育てられた子どもは、愛されていると確信している人間が見せるような幸福な表情を見せない。彼らはおびえ、緊張し、母親に叱られることを恐れ、なんとか母親の期待に沿おうとする。
子どもたちは人生にたいする母親の隠れた憎悪をはっきりと認識できるわけではないが、敏感に察知し、それに影響され、ついにはすっかり染まってしまう。
母親が非利己主義だと、子どもは母親を批判できない。
子どもたちは、母親を失望させてはならないという重荷を課せられ、
美徳という仮面のもとに、人生への嫌悪を教え込まれる。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』

私が「忘己利他」と呼んだものの実態をあらわしていると感じました。

義務感ではなく、体感からくる「誠」がどんなものかを知りたくて
「自分が本当はどう感じているのか」を優先させてきたのがこの2年。

それ以前の、理想の姿を目指して努力していた時に
身をもって感じた一つの経験則が

反感をもった対象に「親心」を持とうとすると凄まじく消耗する

ということです。

それを実感しながら、意地で努力をした時期がありました。
そして、
「結局、徒労だったよな」というのが、
当時を振り返った等身大の私の感想なんですよね。

だって、まったくちがうことわりで生きてるんですもん。

ただ肉体が物理的に周辺にあるという理由で、
違う世界観で生きている人からの攻撃に耐えながら
無理やり調和しようと苦労するより、

自分が「居心地のいい」と実感する人を
大切にする方が自然なんではないかと思いました。

それができるくらい、
人間の行動範囲が広がっているのが現代ではないでしょうか。

→誠実に向き合うには膨大なエネルギーを要する


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