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ひとの悪口は自己表現でしかない

私には、「コイツ嫌い」スイッチがあります。
そのスイッチが押されると、相手に関わることを極力避けて
その人が自分の「世界にいないことにしようとする」傾向があります。

これは、嫌いな人と空間を同じくした場合、
仕事などの作業に没頭して相手を見ないよう努力する
という行動として現れます。

相手が私的な用件で気を引こうとしてくる場合は、
断固として逃げ回るようになります。

…というようなことを、
「嫌いな人」と関わった時間によって自覚しました。

行動パターンの根源

これはおそらく、
幼少期に獲得した生存戦略なんだと思っています。

被害を受けても耐えるしかない
反撃もできない状況の中で
できることを子供なりに模索した結果、

害を加えてくる相手を見下げて
パブリックエクセレンスを決め込むことで
そこから離れられている錯覚を得ようとしていた。

「てめぇなんぞ眼中にねえわ」って言いたかった。

ニーチェの「超人思想」って
この感覚から出発してるんじゃないかって
浅学ながらに想像してみます。

(強烈な悪印象が脳に焼き付いているので)
近くて離れられない距離で目の前にいる
嫌いな相手(のイメージ)から目を背けるために、
のけぞりながら空を見ているかんじですね。

これを続けていると
自分の感情を否定して、抑圧することになるので、
悪感情を消化できず、ともすれば膨れ上がります。

結果として、
嫌いな人の「幻影」との付き合いが長引きます。

「生霊」説との格闘

ここからちょっと恥ずかしい話をします。
バカダナァって笑って下さると浮かばれます。

YouTubeとかでたまに見ません?

「エーテルコードがつながっていて、エネルギーを奪われている」
とか、
「理由もないのにネガティブになっているのは、生霊に憑かれているから」
とか言って、
「生き霊払いのエネルギーを送ります」っていう動画。

あれがたまたまオススメに上がってきたのをきっかけに、
私は、物理的に距離を置いても残っている
嫌いな相手への「怒り」が、
その方から送られてくる「生き霊」なんじゃないかと想定しました。

なんせ、「私はあんな奴、もともと眼中にないんだから」
って思っていたので。

そうすると、
しつこく蘇ってくる腹立たしい記憶と共に、
今なお私を煩わせるその方に対しての憎悪にも似た感情が
ふつふつと湧いてくるんです。

こうして
終わらせた関係に縛り付けられていること自体、
あいつの思う壺だ…みたいな葛藤もありました。

勢い余って浄化グッズも買ったくらい。

そのうち、
そんなに相手して欲しいんならしてやるよ
と思うようになって、
想像の中で相手を殴ったり蹴ったりするようになりました。

感謝の心を忘れてはダメだという強迫観念があったので、
気が済むまで殴ったあとは、(たまに殴りながら)


BGMは🎶ぴえヨンブートダンス🎶


と唱えていました。

そういうことを続けていくうちに、
自分の「怒り」を認める他ないと思うようになりました。

その方の戦略にのって困窮した
とは認めたくなかったんですけど

彼女がやっていた保身のための嘘には
普通にしっかり傷ついていたし、
迷い惑う状態にも陥ったし、
困ってもいたんです。

ようやく解放されて思うこと

ここでやっと、表題に掲げた
「ひとの悪口は自己表現でしかない」
についてお話しします。

私は「怒り」へのアプローチとして、
湧いてくる悪感情をノートに書き出し
その内容を分析したり考察したりしていました。
どうにかこれを
建設的に経験値として取り込みたいと思ったからです。

成果にこだわって
noteに公開するという暴挙をとろうとした結果、
いくつもの醸成下書きを生み出しました。

私の口から出た罵詈雑言です。

そこには、私ならではのフィルターがかかっていました。

「私が」それまでの人生で感じた、
情けなさや、強がりや、偏見が
ふんだんに散りばめられていました。

自分から出る言葉って、
自分のことしか表現できないんですよね。

まだ為人を知らなくて平然と受け流せていた頃に
その方のフィルターを通した「罵詈雑言」を聞かされ、
「ああ、彼女はそういう見方をする人なんだな」
という感想を持ったのを思い出しました。

第三者視点の時はあっさり看破できていた事実を
ここにきて突きつけられたと感じました。

#嫌いな人から学んだこと


もともと私は
「好き嫌いがない=嫌いになるほど人に興味がない」
と自認して生きていました。
…その感情を見ないようにしていたからだと思います。

人間関係の中で揉まれるうちに
「嫌いな人」の姿を鏡にして突きつけられた
私が「自分に許していない、受け入れられない」影

おおよそ他と自分との境界線が曖昧で
・相手の都合を考えず勝手な解釈で他者をジャッジする
・自分の都合が悪くなったら相手構わず甘えて頼ろうとする

という姿をしていました。

私がそう受け取った場面だって
別の人からすれば
また違う視点や、解釈が入るんだろうと思います。

ラスボスたる「自分の影」との対峙に到達できたのは、
その方と関わったからだと思います。

姿が見えない場所に移動してから、
心の乱れを発散するために
怒りをノートに書き出したり、脳内ボクシングをしてみて
ようやく自分と向き合うことができました。

だから、
その方に伝えたい「ありがとう」は、こんな感じです。

サンドバッグ(になってくれて)ありがとう


2023年10月3日 拝


#嫌いな人から学んだこと

山根あきらさまの企画に便乗させていただきました。
ここしばらく蟠っていたものを昇華することができました。
ありがとうございました。

知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。