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自利利他〜自分を知ってこそできる利他〜【四】

他者を自分の鏡にしていないか

他者が「他者である」ことをわかっていないと、
利他は成り立たない。

まず前提を説明すると、

私が「他者のために動く自分」を
ONLY IF I'm OKに設定していたとき、

私自身が、それまでに何度か
他者から受けた
その人のこだわりによる「アドバイス」を真に受けて、
結構な時間と労力を消耗し、
最終的にはそのアドバイスに対して
「知らんがな」という結論に至った。
そして、それによって虚無感と
やり場のない怒りを抱えた

という経験をしていたため、

ここから起因して

他者にとっての「ちょうどいい」助けって
どんなだろう

みたいな探究テーマを持っていたんです。

なので、色々と自分なりに工夫して
誰かが困っていそうな時に、
その人が嫌そうなことを請け負えるように
相手を観察したりしていたんですが

相手の困りごと自体、
私自身が似た経験をしていないと
察知することが難しいんですよね。

もっというと、
良かれと思って動いても、
その人のためになっているかは
最後までわからないっていう…

なんせ、善悪の判断は、
私のフィルターを通している限り、
私の経験と教訓からくるものでしかないですから。

私の良かれが、
その人の「助かった」にかする、、、かどうかは
一か八かの大博打です。

そして、私自身が私に課していた
「忘己利他」の精神では、
その博打がかなり危ういものになると気づいたんです。

自分を忘れるということは、
大前提として、
自分が「常に中庸の判断をしている」
という絶対的信頼があって初めてできる気がします。
そして、それはとても困難なことだとも思っています。

なぜなら、
世の中を見るとき、
私は私のフィルターを通してしか
対象を見られないからです。

自分特有のフィルターがかかっていることを忘れて、
他者と自分との境界線を曖昧にした状態で
献身的なお世話をした時、
おそらく多くの場合、
「知らんがな」の大きなお世話、いらぬ世話の蒲焼
になる可能性が高い。

悪い言い方をすると
エゴの押し付けっていうやつになるんじゃないかと。

だからこそ、他者に本当の意味で貢献するには、
まず「自分の分際を知る」…
自分のフィルターを自覚することが
必要不可欠なんじゃないかと思うんです。

つまり、
しっかり手綱を握っておかないと危険な「自我」の存在
を忘れて、放縦にさせたまま他者に関わろうとする
忘己利他では、
利他は成り立たない
んじゃないか
っていう結論です。

これが、空海さんからの諫言と、
これまでの経験をもとに出した
私の教訓です。

→自分のなかの宇宙とつながる

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