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心照古教〜『大学』を考える〜【十三】
切磋琢磨(一)
本文
詩に云わく、彼の淇の澳を瞻れば、
菉竹猗猗たり。
斐たる君子有り、
切するが如く磋するが如く、
琢するが如く、磨するが如し。
瑟たり僴たり、
赫たり喧たり。
斐たる君子有り、終に諠るべからずと。
切するが如く磋するが如しとは、
學を道うなり。
琢するが如く、磨するが如しとは、
自ら修むるなり。
瑟たり僴たりとは、
恂慄なり。
赫たり喧たりとは、
威儀なり。
斐たる君子有り、終に諠るべからずとは、
盛徳至善、民の忘るる能わざるを道うなり。
詩に云う、於戯、前王忘れられずと。
君子は其の賢を賢として、其の親に親しむ。
小人は其の楽しみを楽しんで、その利を利とす。
此を以て世を没えて忘れられざるなり。
訳文
意訳すると、こんな感じです。
『詩経』には、
淇という川の畔を眺めると、
緑の竹が美しく生い茂っている。
そうしていると、竹に「君子」の姿が連想される。
それぞれが皆お互いに、師友相俟って切磋琢磨している姿だ。
彼らは切磋琢磨の修養を積み、厳かで(瑟)心寛く(僴)、
明るく輝くような(赫喧)威儀を備えている。
こういう、素晴らしい君子は、終生忘れられはしない。
ということが書かれた一節がある。
「切するが如く磋するが如し」とは
講習し討論する学びの道を云い、
「琢するが如く、磨するが如し」とは
わが身を修める道徳的努力を指す。
「瑟たり僴たり」とは、
おそれおののく(恂慄)ということ。これは、人格の威厳から受ける私たちの緊張感を表している。できた人に会うと、身体が引き締まる、あまりに威厳が高いと確かに震える。
「赫たり喧たり」とは、
外見(態度・風貌)にも威厳があって、その礼節を見ても堂々としている。
人はこれを儀(法)とするのである。
「斐たる君子有り、終に諠るべからず」とは
その徳が辺りをあまねく照らし(盛徳)、心身家国天下によく行き届いた(至善)君子に対して、人民がその徳を思慕して片時も忘れられないことをいう。
『詩経』には、こういう一節もある。
「ああ、前王のことが忘れられない」
文王や武王の後を継いだ為政者(君子)は、
前王の選び用いた賢人を敬愛し、その近親者を親愛する。
また庶民(小人)は、前王が遺した太平の楽しみを楽しみ、
国民のために制し計られた利益を享受する。
そういう次第で、文王や武王はすでに世を去られたが、
永く忘れられずにいるのである。
思うところ
『大学』で取り上げた「三綱領」・「八条目」を念頭に置いて
道に至るための「八原則」をしっかり実践した先人に、
こういう君子がいた
という紹介の部分になるんだと思っています。
まだ学びの途中でもその姿を想像できるように、そこを目指せるように、
理想とする「君子」の様子を具体的に書いているのかな、と思いました。
私がこの一節を読んで感じた部分は、「切磋琢磨」です。
竹が青々と生い茂り、思い思いに真っ直ぐ伸びている様から
君子たちがそれぞれに自分を修養し、向上しているところ
を連想したのかな、と想像しているのですが、
この切磋琢磨について、印象深い解釈があったのを思い出しました。
→切磋琢磨(二)
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