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「社会的処方」は新しいのか

最近「社会的処方」という言葉が日本の医療業界で認知されつつあるようだ。「社会的に孤立しがちな人を対象に、地域とつながる方法を処方すること」を、最近の医療業界では「社会的処方」と言うらしい。さらにそれが、医師のインセンティブにつながるよう、診療報酬に加算する動きもあるのだとか。

こうしたニュースを知って、私はちょっとした違和感を覚えた。

だって、「社会的に孤立し病気を抱えている高齢者などに、地域とのつながりをサポートすることで健康を取り戻してもらう」取り組みなんて、ずっと昔からとっくに行われてきていることじゃないか、と思ったからだ。老人クラブやお茶飲み会、なんていうのもそうだし、たとえば孤立しがちな新生児がいる家庭を保健師さんが訪問して、乳幼児向けの集まりやサービスを案内するのだってそうでしょう?

医療者や福祉関係者は、地域の人やコミュニティとじっくりと信頼関係を築き、対象となる一人一人について、微妙なニュアンスを汲み取り、じょうずに「つながり」を利用してきたのだと思う。ときにはつなげ、時には距離を置き。地道に、普通に。

これまで普通に行われてきたこの取り組みに、どうして今更名前をつける必要があるんだろう?

率直に疑問に思った。

社会的処方はつながりに特化したものなのか

私が初めて「社会的処方(social prescribing)」という言葉を知ったのは、半年以上前。医療関係者からではなく、アートに関わる友人(私にとってはアートの先生のような人)たちから聞いたのがきっかけだった。彼らが言うには、この「ソーシャル・プリスクライビング」という考え方は、健康に対して、よりホリスティックに、ローカルかつ非医療的なアプローチをしようという考え方で、ヨーロッパでは、第二次世界大戦の頃から歴史があるのだとか。

例えば1939年のイギリスで、長引く大戦のストレスを文化の導入で緩和しようと展覧会やコンサート、演劇などが様々な場所で開催され、スウェーデンでは大戦で生じた移民たちをマルモ美術館で受け入れたという。その後も音楽や踊り、アートの鑑賞などといった文化活動が、人の精神を整えると考えられて、さまざまな試みがヨーロッパを中心に行われてきたのだそうだ。

そういった背景を経て、ここ数年、イギリスでは詩を処方する薬局(Poetry Pharmacy)ができたり、カナダで医師が美術館のチケットを処方できるようになったりと、アートや音楽を鑑賞することそのものが一つの処方であるという考えが、欧米中心に形になり始めている。

こうした流れの中で、日本でも新しい取り組みを始めようとしている、というのが彼の友人たちだった。

私の中では、数ヶ月前に聞いたこの話が「社会的処方」の情報源だったので、今回のニュースを聞いて、「社会的処方」の対象が「社会的に孤立しがちな高齢者など」に限定されていることも、その方法が「地域とのつながりをサポートする」ことに特化されていることも、現在の日本で医療行為の対象に組み込まれることにも、なんだか違和感を覚えた。

実際のところ、「社会的処方(social prescribing)」をどう解釈するのが“正しい”のか、私にはわからない。日本の医療業界が定義するように、孤立しがちな人を対象に、あくまでも「つながること」に重点を置いたものと考えるのがいいのか。あるいは友人たちが教えてくれたように、もっと幅広く、対象者も限定することなく、アートや音楽を鑑賞したりすることそのものを通じてヘルスケアをする、というような、文化とひと続きの考えとしてよいのか。

少なくとも医療の世界では、前者と捉えてシステムの中に組み込もうとしているのであり、ソレに対して私は、「あれ、いままでもそれ、やってなかったっけ?」という疑問を抱いたのである。

仮に「社会的処方(social prescribing)」を後者と捉えるのならば、それは本当にあくまでも文化の中に位置づけられるものであって、それを現代日本の医療の枠組みの中に押し込むのはなんだか乱暴な気もする。

「つながり」の持つ力の二面性

「つながり」というキーワードは、個人的に学生時代からずっと注目している言葉である。一市民として、人とつながることの意味の大きさは身をもって経験してきた。

けれども同時に、つながりを押し付けることの暴力性ということも考えてきた。健康観を押し付けるのと同じで、つながることが良いと一方的に決めてかかるのは危険だと思う。時には孤独が必要なこともあるし、その人にとってもっと大事なものを守るために人との関係を遮断したい時、せねばならない時だってあると思う。時に不健康な要素が人生に必要なように。

「人間は分子みたいっていったらおじさんはすごい発見だって言ってくれたでしょ?でもみんなでひとつの大きなかたまりになって肩を寄せ合っているせいで…かえって抜け出せなくなるときもあるのかもって…みんなで見えないふりをしている状況からさ…」

最近息子の本棚から抜き出して読んだ吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」(漫画版)に、こう書かれていて、改めてハッとした。つながることは、諸刃の剣だ。

だから、心の健康には社会的処方でつながりを、という安易な図式ができあがるのはちょっと怖いと少し思う。誰かのウェルビーングやメンタルヘルスに関して助言をするためには、本来丁寧に築き上げた関係性が必要だし、その人の背景や状況や歴史や、その人が住む地域のことを正しく細かく把握していることが前提となるべきだ。

これまでは、「誰かのメンタルヘルスのために地域や人とのつながりを上手に活用する」という部分に、敢えてカチリとした名前も公式も与えることなく、誰かしら(医療者だったり福祉事業者だったり家族だったり友人だったり)が現場で柔軟に対応してきたのだと思うし、それがよかったのではないのか、という気が個人的にはしている。むしろ、そうやってしか対応できなかったのではないか。

ところが、今日本では、改めて「つながり」に重点においた「社会的処方」という言葉が医療用語然として出回り、さらにそれが医療の中に組み込まれて、値段をつけられようとしている。

これは前進のようでいて、一歩間違えばとても危険なことなのではないか、と、なんとなくの不安を覚える。きちんと地域で信頼関係を築けていない医療関係者や福祉従事者が、実際にはできていない「社会的処方」をやったことにして点数稼ぎに走ったりしないだろうか。あるいは時に必要な「つながらないこと」を排除してしまうことになりはしないか。

あるいはこうやって、これまで名前も公式もなくやってきたことにさえ、カチッとしたシステムを用意してあげなければ、これまでしてきたことが継続できない世の中になってきているのだとしたら、それはそれで、なんだか悲しい。

つながりが健康寿命を伸ばす研究結果が出ていることは承知しているけれど、アカデミックな研究って多分、人間の真実のうち、一つの側面を、一つの方法で切り取ることしかできない。そうではない人や時代や状況や文脈っていうのは、少数ながらきっとあって、そういうのを研究のデータ上のように全部切り捨てたりはできないのがリアルの人間社会だと思っている。

研究とリアルのはざまで

「つながることは健康寿命をのばす」という研究結果がある、それは確かな科学的事実だろう。私も実体験として知っている。つながること、つながりを実感することのもつ力を。

しかしそれが、そのまま目の前の人に当てはまるのかどうかは、全く別の話だ。さらにいえば、「孤立している人につながりを促すこと」が「インフルエンザにはタミフル」みたいに定石化するのはまったくもっておかしいと思う。孤立はインフルエンザではないし、人によっても文脈によっても様々な意味をもつはずだ。

社会的処方、という言葉自体は正直、どうでもいい。敢えて言えば、もっとわかり易い言葉で言えばいいのに、と思う。
医療業界が定義している「様々な活動を通じて地域でのつながりを促すこと」という意味なのだとしたら、「つながり支援」じゃどうしていけないのか。
あるいは、アートを鑑賞することそのものの意味、ということを言うのだとしたら、文化的支援、とでも言えばわかりやすいのか。調べていると、「Arts on prescritption」という言葉に出会って、これが、もしかしたら友人たちのいうソーシャルプリスクライビングの概念には近いのかもしれない、とも思った。

なんとなく、「社会的処方」という言葉を、まるでものすごく新しいもののように光を当てて定義し、やや強引にリアルの社会に落とし込もうとしているような、なんとも言えないようなあざとさを感じてしまうのは私だけだろうか。

「社会的処方」という言葉は、本当に医療の中だけで定義できるのか。「つながり」に重点をおいた考え方として定義していいのだろうか。そしてそれは果たして、新しいのか。

そしてもう一つ、研究をリアルな実社会に結びつける方法って、こんなに垂直的でいいんだろうか。研究は研究で面白さがあるし、価値もあると思うし、研究をする頭のいい人たちを本当に尊敬する。だけど、リアルの社会にはリアルの社会の真実があって、それもきちんと尊重していかなくちゃいけないと思う。どっちが上ということはなくて、研究も大事だし、リアルも大事だ。でも目の前のだれかの人生がかかっているという意味では、リアルのほうがインパクトは大きいのかもしれない。


基本的には、いつもリアルを這いつくばって生きている、いち主婦のつぶやき。(専門家でも研究者でもちゃんと取材したわけでもなくて本当すいません。)

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