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モテないギャグ・リテラシー

あまり個人的な闇を、他人様に晒すのは良くないと、世間一般的には言われているのだけど。年の瀬だし、おそらくみんな自分のことで忙しいので、そっと、今年中に放出したい闇がある。



それは、今年のバレンタインデーのこと。
「なぜ私は人を好きになれないのか」という問いへの答えが出た。


「到底誰かが私のことを好きになる訳がない」
「そもそも私はモテマーケットに組み込まれていない」
そう思って卑下しながら数年間過ごしてきた。



なぜこのような思考になってしまったのかというと、(しつこいけど)大学生の時ロンドン留学中に告白ドッキリを仕掛けられたことに起因する。でもその事件自体はきっかけに過ぎなくて、本当はあの時私だけが「ボーイAがるいを好きだというジョーク」を解していなかったことがとても恥ずかしかったのだと思う。瞬時に強気にふったのに、だから私には害がなかったはずなのに。そもそも前振りからの、実際の告白からの、その後のbehind the scene的な嘘のエピソードも、「いやボーイAが私のこと好きな訳ないやん」という、他の人にとっては自明な大前提へのリテラシーが欠如していたことが、後から考えてとても愚かに思えた。
(似たような感情を、崇拝する綿矢りさ様が先に小説『勝手にふるえてろ』で書いてくれていた。なぜ綿矢りさ氏は、こちら側の感情がわかるのだろうか。。。)

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(映画ではこのあたり)

(あの事件)



まだ幼かったので自分のことが可愛かったし、社交性もまあまああると思っていたので「るいのことが好きだ」ということが、他の人にとってジョークになり得るということが、すごく屈辱的だったのと同時に、つけあがっていた自分が本当に恥ずかしかった。

だから、それ以降は舵を切りまくって、「As you know, 私どう見てもモテないじゃないっすか?」な感じを出しまくっていた。「モテテク」「男性ウケ」という言葉は積極的にミュートしていた。会社の人に「どんな人が好きなの?」と聞かれても、「病んでる美大生みたいな人」とか、マニアックなK-POPアイドルとか、到底検討もつかなさそうな例を挙げていた。それ以降の会話が続かないように。
あの日から3年くらい経った会社の飲み会で、男性の先輩が「彼氏いるの?」とテーブルの右側から順番に聞いてきた時、1番左に座っていた私にもちゃんと同じ質問が来たから「ふっ」って笑ってしまったのを覚えている。「あ、私にも一応聞いてくれるんですね笑」的な感じで。無意識の「ふっ」に、自分でも驚いた。



人を好きになれない理由を周りの環境(ずっと女子校とか文化系のサークルとか女性の多い職場環境とか)のせいかなと思ったり、あの日よりも前から頭の片隅にあるアセクシャルかなと考えたりもしたけど、そうじゃなくて、あの日一気に築き上げた思考の鉄壁のせいだったのかもしれない。(福岡県民なので、同郷のよしみでYKKが協賛してくれた)

7年前のあの日、ギャグリテラシーが無かったので自滅してしまったんだけど、それ以降今年の2月までは、行き過ぎた"リテラシー"によって、再びあの屈辱と恥を味わうことがないように、ずっと自分をガードしてきたみたい。
リテラシー of bulletproof.


「髪を伸ばしてみたら?」「もう少し普通の服を着てみたら?」と、あまりにも私が恋愛に縁がないのを見兼ねて、心配した友人が言ってくれることがある。しかも複数名。別々の場所とタイミングで。だけど、申し訳ないけど、それらの助言にはあまりピンと来ていなかった。髪を伸ばし続けたら、誰かが受け入れてくれるようになるとは思えなかった。なぜならそもそも私は”モテプラネット”の軌道からあぶれてしまっていて、行き場もなく宙にぷかぷか浮いてるのに、そんなことは全く気にも留めずに、他の人たちは当たり前のようにパートナーと巡り合って、それで世の中うまく循環しているように思えたから。




あの日のことはギャグだったんだから、全部ギャグだと思うことにしてたみたい。「いつも笑ってていいね」とか「彼氏いないの意外だね」とか言われても、「そなたの目の奥には、何か他の意味があるのでしょう?いとをかし、ふふ」と思うようにしていた。モテないくせに明るい性格(と思われがち)だし、おっぱいが大きいのもギャグだと思ってた。日本でもイギリスでも、相手が女性だろうが男性だろうが、私に関して何か褒めてくれても、私の脳内VA(Virtual Assistant)タイピストは「(モテないけど)」と丁寧に枕詞を追加してくれていて、また私がつけあがって傷つかないようにしてくれていた。


モテプラネット側の人は、簡単に「こじらせてる」と言うけど、たぶん彼らは、きな粉がまぶされた揚げパンのねじねじくらいに思ってるんだろう。そんなに甘いもんじゃない。正直私自身も、ここにおける”ギャグ”も”リテラシー”もどれが正しい解釈で、どこからは行き過ぎているか判断がつかない。もつれにもつれていて、始点さえも定かでは無い。
(これも崇拝する綿矢りさ様の『勝手にふるえてろ』で、進化しすぎて絶滅したアンモナイトの喩えで記されている。)


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なんだけど!今年のバレンタインデーに、この呪縛から解放されたの。(当時飲食店は開いていなかったので)ロンドンの友人宅で、毎週末のように次の日の朝まで飲み食いしていた。友人の一人が、自分のコンプレックスに思っていることを話してくれたの。でも正直私からしたら、「何言ってんの?」って感じだった。「何を悩んでるの?It does not make sense.(急にかぶれるけど気にしないで)」本当に直す必要があることなら悩んでいるのも納得がいくけど、その人は人間性も素敵で、チャーミングで、人望もあって、仕事もできて、どこを取ってもすごく羨ましかったのに。でもその人は本当に長い間悩んでいるようだった。

家に帰ってからも、そのことをずっと考えていた。
私に何かできることがあるかな?と思ったけど、経験値が低過ぎて何もできそうになかった。
「でもコンプレックスなんて、大概は他の人からしたらどうでもいいことなのかもなー。本当はそんなに固執して悩む必要なんて無いのかも。でも周りが何と言っても無駄で、自分で負のスパイラルから抜け出さないといけないんだろうなー」なんて、ぼんやり考えていた。


で、
「あれ?あたいもじゃね?」
「思い込み過ぎだったんじゃね?」疑惑が浮上した。


たぶんだけど、「あの日」以外は、誰も"非モテギャグ"を言っていなかった。
たぶんだけど、"非モテのフリ"も、"非モテのノリ"も、なかったみたい。
行き過ぎた"リテラシー"で7年間、ひとり打ちひしがれて過ごしてた。
まじかよ。


そんなこんなで、ながーーく続いて、私のアイデンティティや思想の大部分を占めていたこの件は、7年の時を経て、ホームランドであるロンドンで終息を迎えた。ロンドン1年目の冬にも「あ、もうちゃんと忘れられそうだな」と感じたけど、帰国1ヶ月前にして、しっかり終わった。流れに身を任せた現象ではなくて、終わりをちゃんと認識した。何かを見たとか、映画のワンシーンとか、誰かに諭されたとかじゃなくて、ベッドの上でパジャマにも満たない格好で「そっか。そういうことか」的な感じで終わった。
本当は、公園で謎の長老が人生の知恵を教えてくれたり、有名な占い師が訛りの強い英語で早口で"You'll be fine"と言ってくれたり、一人だったとしてもせめて大自然の中で答えが降りてきた、みたいなのが良かった。
ズドン!バキュン!ガツン!とか、そういう衝撃を期待していた。
あの一瞬を表す擬態語があるとしたら「ポピ」って感じ。地味目の機械音。
何か設定が変更されたのかな。もっとドラマチックが良かった。

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(彼とか)

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(暴風雨だったのに突然晴れてきた、この瞬間とか)

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(鏡リュウジがオススメしていたCovent Gardenにある、占星術ショップのじじいとか)


多くの人は全く通らなくていいプロセスを経て、やっとスタート地点が見えてきたのだよ、2021年。
という気持ち悪い闇から抜け出せた話。



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