僕が都市計画を始めたワケ
最近、学生や初対面の方などに、よく聞かれる質問が「僕が都市計画を始めたワケ」である。
Twitterで次に読みたいnoteで一番票が多かった。
なので、自分の整理のためにもまとめたいと思う。
まずは、泉山塁威プロフィール
僕は、2003年に日本大学理工学部建築学科に入学し、4年間学んだ。その後に同大学院・不動産科学専攻で博士前期課程(修士)を学び、3年の設計事務所で建築設計と都市デザインに従事し、明治大学大学院で博士後期課程(博士)で学び、そして助教などを経て現在(日本大学理工学部建築学科准教授)に至る。詳しい経歴は以下を参照されたい。
2003年に、日本大学理工学部建築学科に入学し、当時の建築設計中心の建築学科カリキュラムは、多くの学生の影響を与えていた。1-2年生は基礎固めということで、建築設計に関心があり、講義科目にはあまり惹かれず、不器用ながらも興味のある建築設計に身を注いでいたのを覚えている。どこかそこには建築設計の講評会に選出されるという競争もあり、学科定員が300名近いマンモス校ならではの激しい競争のある環境であったからかもしれない。建築設計は選択科目になる4年の都市的な建築設計まで、がむしゃらにやっていた。
ところで、私は、北海道札幌市生まれ、札幌市出身であるが、家族の転勤もあって、埼玉県本庄市育ちである。夏に暑さのニュースでよく出てくる熊谷や高崎の間にあり、高崎線で本庄駅、新幹線では本庄早稲田駅のある都市である。
育ち故郷で感じた衰退する街の状況
建築学科2年が終わる春休みに、20歳ということで成人式がある。私は成人式は札幌だったが、その後、久々に小・中学生時代の友人たちと会うために本庄市に向かったのである。
2005年と5年ほど離れた育った街を見て僕は衝撃を受けたのだ。
本庄駅前のチェーンスーパー・サティ(現:本庄BLALA)が閉店していた。
閉店したサティには、パチンコ店、空きテナントなどが見られていた。
そして、かつて住んでいた自宅の周辺の書店が閉店していた。
(今覚えば、書店が閉店したのは、インターネットの普及による活字離れなど言われるが、雑誌の休刊が増えたことで、書店モデルが成り立たなくなってきたこと。さらに、モータリゼーションにより、軽自動車が普及し始めたことで、徒歩圏/自転車圏から、自動車圏に消費行動が変わったこともあるのではないか)
なぜ街は衰退するのか?「都市」への興味
それら複数の情報が一気に自分に迫ってきたことで、なぜ街は衰退するのか?元気がなくなるのか?と2年生ながら、考えていたように思う。
その時に、旧サティの中に、「UR都市機構」オフィスを見つけて、「都市」というワードが異様に自分の中で入り込んできたことを覚えている。
(おそらくその時に新幹線の本庄早稲田駅の区画整理事業が進んでいたので、UR都市機構のオフィスはそれの影響ではないかと、今でこそ思うけれど。)
それらを通じて、これまで建築設計に勤しんでいた自分にとっては、敷地の中で、建築設計を行うよりも、都市スケールで都市計画、都市デザインを行うことで、街を都市を変えていきたいと思ったことを今でも覚えている。
これが、「僕が都市計画を始めたワケ」である。
建築学科で都市計画、都市デザインを学ぶ
その後、新学期が始まり、建築学科3年生になった僕は、都市計画や当時の都市調査及び演習などの授業を受け、都市計画研究室に所属し、都市計画の研究やプロジェクトに取り組むことになるのである。
今は、建築学科で都市計画、都市デザインを教える
そして、今、13年ほどが経ち、その都市計画研究室を自ら担うことになるとは、当時は想像もできなかった。
そこで、今、僕は建築学科で都市計画Ⅱ、建築設計Ⅳ(都市開発系)、今年から大学院の都市デザイン特論を教えている。
3年生の都市計画Ⅱでは、課題レポートで、都市のリサーチやアクティビティ調査、事例調査などをする課題、授業でも様々な都市の状況やあ事例を伝えている。
これからの都市計画、都市デザインを担うかもしれない学生たちに、「都市」の意識や、都市計画、都市デザインの醍醐味、楽しさを伝えて、僕のように、都市計画を始める学生が増えるようになれば幸いである。
僕のその後については、またの機会に綴ろうか。
Cover Photo: Shutterstock, Sergey Nivens
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