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ミディアムポエムとは何か ~短くも長くもない自由詩~

1 はじめに

先日このようなツイートをした。

ここで提案したミディアムポエムという枠組みを使って、いろいろな人に自由詩を書いて発表してもらい、それを通してネット上に交流の場を生み出すことができたら良いなと考えている。提案者としてハッシュタグ #ミディアムポエム の使い方にルールを設けるつもりはないので、興味のある人は気軽に使ってみて欲しい。

ミディアムポエムの簡単な紹介は以上で終わりなので、ミディアムポエムが何なのか知りたいという方はここで読むのを切り上げてもらって構わない。以下では、自分のためのメモも兼ねて、ミディアムポエムを提案した目的とミディアムポエムを思い至った経緯、ミディアムポエムの定義に関する補足を記しておく。

2 ミディアムポエムを提案した目的

ミディアムポエムを提案した目的は、一言で言えば、自由詩の作者と読者およびその間の交流を増やすことである。もう少し詳しく書けば、目的は次の三つである。

  1. 自由詩の作者を増やすこと。自由詩の制作と発表のハードルを下げ、自由詩を書いて楽しめる人を増やすこと。

  2. 自由詩の読者を増やすこと。自由詩の鑑賞と批評のハードルを下げ、自由詩を読んで楽しめる人を増やすこと。

  3. 自由詩に関するコミュニケーションを増やすこと。作者間、読者間、作者-読者間のコミュニケーションを促進し、自由詩作品が読まれる機会や言及される機会を増やすこと。

3 なぜ「ミディアムポエム」なのか

では、なぜミディアムポエムなのか。少々遠回りにはなるが、現在の短詩形文学や過去の短詩運動を取り上げ、ミディアムポエムを提案するに至った経緯を説明したい。

3-1 短詩形の利点

短詩形とは短い詩の形式のことだが、主に短歌や俳句、川柳など、短い定型律の詩歌を指す[1]。これら短詩形文学は、現在も多くの作者と読者を持つ魅力的な詩形であり、その勢いは自由詩以上であると言っても良いだろう。

ではなぜ短詩形はこれほど多くの作者と読者を魅了しているのか。おそらく答えは一つではないと思うし、そもそもこの問いに正面から答えることは難しい。そこで、ここでは私の考えている三つの仮説を紹介するにとどめておく。

一つ目に、短詩形の作品は比較的短い時間で制作することができる。歌人の枡野浩一は、短歌をとりあえず一首作るというのであれば短い時間で可能であり、その手軽さが人気の理由の一つではないかと指摘している[2]。作品制作の手軽さはまた作者の新規参入のハードルを下げることにもつながるだろう。もちろん、これは短詩形の制作には時間をかける必要がないと言っているのではない。良い作品を作るためには相応の時間をかけて推敲する必要があるだろう。しかし一方で、作品制作の取っ掛かりの容易さには注目すべきところがある。

二つ目に、短詩形はTwitterといったネット上のプラットフォームと相性が良く、作品の発表と鑑賞が容易である。ここでは短詩形の中でも短歌に注目してみよう。多くの場合、短歌は一つの作品が30文字以下であり、1ツイート内に容易に収まる。実際、Twitterでは日々多くの短歌が発表されるとともに、多くの短歌が読まれている。ハッシュタグ「#tanka」「#jtanka」「#短歌」を検索すれば、その様子を垣間見ることができる[3]。ツイートの形で発表された短歌には、読者は「いいね」によって評価を簡単に表明することができるし、読者から反応が返ってくることは作者にとって励みになる。このように、Twitterと親和性の高い短詩形は、Twitterというプラットフォームにおいて多くの作者と読者を獲得している。

三つ目に、短詩形の作品は比較的短い時間で鑑賞でき、それゆえ作品に関するコミュニケーションが活発である。短詩形の作品は短い時間で最後まで読むことができ、要点を絞った意見交換もしやすい。ネット上での文字を通した意見交換だけでなく、歌会や句会といった合評会文化も広く浸透しており、このことは短詩形の腕を磨くのに役立つだけでなく、作者のモチベーションの維持にも有用である。

このように、短詩形にはいくつもの利点があり、このことが作者と読者および関連するコミュニケーションの多さに繋がっている可能性がある。このことを踏まえると、短い自由詩を書けばこれらの短詩形の利点を享受できて良いのではないか、という考えが思い浮かぶ。そこで次節では、過去に試みられた短い自由詩(自由律の短詩)について見てみよう。

3-2 1920~1930年代の短詩運動

小泉[1]はこれまでに起こった短詩運動を次の二種類に分類している。

  1. 定型詩由来の短詩運動:短歌、俳句、川柳からの脱却を一つの特徴とし、主に1910年代後半から1920年代前半に起こった運動。

  2. 自由詩由来の短詩運動:民衆詩派の平易で散文的な詩への反発を特徴とし、主に1920年代初頭から1930年に起こった運動。

前者の短詩運動としては、俳人の金児農夫雄による『蘗』や、金児が歌人の西村陽吉とともに創刊した『我等の詩』が挙げられる[4]。俳句では荻原井泉水による『層雲』や河東碧梧桐による『海紅』で自由律俳句が試みられ[1]、短歌では西村陽吉による『芸術と自由』や前田夕暮による『詩歌』で自由律短歌が試みられた[5, 13]。また、『小康』を刊行した川上日車と木村半文銭は数多くの自由律川柳を発表している[6]。

曇った朝の眼に沁み来る一かたまりの草地の青さばかり

金児農夫雄[4]

たんぽぽたんぽぽ砂浜に春が目を開く

荻原井泉水[15]

自然がずんずんからだのなかを通過する——山、山、山

前田夕暮[14]

深みとは何 水甕に水のなき

川上日車[6]

後者の短詩運動としては、安西冬衛や滝口武士らによる詩誌『亜』や、北川冬彦らによる『面』『犀』が挙げられる[4]。とくに安西と滝口は、『亜』全35号のなかで一行詩を計33作、二行詩を計53作、三行詩を計36作発表している[7]。安西の「春」(『亜』19号初出)や北川の「馬」を知る人も多いだろう[8]。



てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

安西冬衛[8]



軍港を内臓している。

北川冬彦[8]

このように、定型詩(短歌、俳句、川柳)と自由詩の両面から、自由律の短詩は探求されてきた。とくに定型詩由来の短詩運動は、口語自由律短歌結社『未来山脈』や自由律俳句結社『海紅』といった形で現在も脈々と続いている。自由律川柳について、小池正博は「現在、川柳の世界で自由律が論じられる機会は少ない」と書いており[12]、自由律川柳は自由律短歌や自由律俳句ほど定着していないかもしれないが、柳本々々など自由律川柳も発表する川柳作家は現在も存在する[6]。

あなたのへそにふれると部屋がどんどん明るくなるね

柳本々々[6]

では、自由詩由来の短詩運動はどうだろうか。安西冬衛の「春」は有名な作品だが、この作品の形式に強い影響を受けた自由詩が現在でも一定の求心力を持っている、とは考えにくい。近年『現代詩手帖』や『詩と思想』といった主要な詩誌に短詩が掲載されることは稀であろう。したがって、自由詩由来の短詩運動は結果としてあまり定着しなかった、というのが現在の状況ではないだろうか。

3-3 なぜ「自由詩由来の短詩」は定着しなかったのか?

仮に、「自由詩由来の短詩運動は定着しなかった」という現状認識を採用するとして、ではなぜ「自由詩由来の短詩運動は定着しなかった」のだろうか。自由律短歌や自由律俳句が今も数多く書かれていることを踏まえると、短詩運動すべてが持続的な求心力を持たなかったわけではあるまい。ここからは私の仮説だが、自由詩由来の短詩は定型詩由来の短詩に吸収されてしまったのではないだろうか。

定型詩由来の短詩には自由詩由来の短詩とは違って、定型を利用できるという長所があると私は考えている。定型詩では通常、作者と読者の間で定型の韻律に関する共通認識があり、それを一つの拠り所としながら作品を鑑賞することとなる。定型詩由来の短詩でも同様に、定型の韻律を作者-読者間の共通認識とした上で、定型の韻律を部分的に利用したり部分的に逸脱したりすることで、さまざまな韻律を表現することができる。例として野村日魚子の次の作品を取り上げてみよう。

犬よ いくつもある墓碑に書かれている文字のどれ一つとして読めず震えている夜

野村日魚子[11]

この作品は全部で40音(字数では37字)もあり、定型律短歌として読めないことは明らかだ。しかしながら、読んでみるとどことなく定型律短歌の韻律が感じられる。実際、私がTwitterで行った小規模なアンケート調査(N=68)では、82%の人がこの作品に三句目は存在すると考えており、定型律短歌の韻律を感じていることが分かる。

では自由詩由来の短詩はどうだろうか。自由詩由来の短詩では、作者と読者の間に共通認識となる韻律が存在しない。そのため、作品ごとに一から韻律を組み上げなければならず、定型詩由来の短詩とは韻律に関する戦略が根本的に違っている。この意味で、自由詩由来の短詩は定型詩由来の短詩よりも自由であるということもできるが、一方で作者と読者にとって拠り所となる定型律が存在しないため、作品を完成させるためのハードルは自然と高くなるだろう。もし短詩を書くならば、自由詩由来の短詩として書くよりも、定型詩由来の短詩(自由律短歌や自由律俳句など)として書く方が、作品の質を高めやすいという可能性は十分考えられるだろう。この点について確かな根拠があるわけではないが、少なくとも現時点の私はこう考えている。

3-4 自由律短歌・自由律川柳の音数的射程はどこまでか?

先ほどは、自由詩由来の短詩よりも定型詩由来の短詩の方が作品の質を高めやすいという意味での優位性があるのではないかと書いた。しかし、定型詩由来の短詩が無限の可能性を秘めているわけではない。やはり短詩ではあるわけで、自然と音数や文字数に上限があるはずである。そこで、ここでは自由律短歌と自由律川柳を取り上げ、定型詩由来の短詩が持つ音数的射程について検討してみたい。

自由律短歌はどの程度の音数を持つものなのだろうか。宮崎信義の「口語自由律短歌概論」によれば「短くて二十五音くらいから長くて三十八九音程度まで」[9]、口語自由律短歌結社『未来山脈』によれば「二十六音から三十八音くらい」であるという[10]。一方で、2022年に出版された野村日魚子の歌集『百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た』には、40音より長い作品も少なくない。次の図は、この歌集に収録されている全139首の音数(モーラ数)の分布である。

音数は31音から36音に集中し、おおよそ一山型の分布をしている。いくつかの外れ値を除けば、音数の範囲はおおよそ30音から50音であるとまとめることができる。以上を総合すると、自由律短歌は古典的には40音程度を上限とする詩形であると言われており、新しいタイプの自由律短歌を踏まえても50音程度を上限とする詩形であることが推察される。

自由律短歌の次は自由律川柳を見てみよう。自由律川柳には長律作品と短律作品があるが、長律作品の作者としては墨作二郎が有名である[6]。

埋没される有刺鉄線の呻吟のところどころ。
秩序の上を飛んでゐる虫のきらめく滴化

墨作二郎[16]

『句集現代の川柳 : 川柳新書合本』には墨作二郎による長律作品が32句収録されている[16]。次の図は、全32句の音数の分布である。

音数は43~55音であり、48音がもっとも多い。このことから、自由律川柳の長律作品は55音程度を上限とする詩形である可能性がある。

以上では、自由律短歌と自由律川柳の長律作品の音数的な射程を検討した。総合すると、自由律短歌は50音程度を、自由律川柳(長律作品)は55音程度を上限とする詩形である可能性が考えられた。このことは、裏を返せば、55音以上の領域は、定型詩由来の短詩では扱いにくく、むしろ自由詩が得意とする範囲であると言える。ただし、それはもう短詩とは言えないだろう。

3-5 ミディアムポエムのねらい

ここまでの流れを軽く振り返りたい。まず、短詩形にはいくつもの利点があることを確認した(3-1)。具体的には、(1)制作の手軽さ (2)発表と鑑賞の容易さ (3)鑑賞を通したコミュニケーションの活発さの三つを挙げた。そこで、自由詩でも短い作品を書けば、これらの利点を享受できるのではないかと想像されるのだが、過去に試みられた短詩運動を踏まえると(3-2)、定型詩由来の短詩は定着したが、自由詩由来の短詩はそれほど定着せず、むしろ定型詩由来の短詩に吸収されてしまった可能性さえも考えられた(3-3)。そこで、比較的短いが短詩よりは長い自由詩を書き、定型詩由来の短詩との競合を避けながら、短詩形の利点を部分的に享受するという代替案が思いつく。そこで重要になるのは、「短詩よりは長い」の具体的基準である。これは「比較的短いが短詩よりは長い自由詩」の下限であるし、定型詩由来の短詩の上限でもある。そこで、定型詩由来の短詩の持つ音数的な範囲を調べた(3-4)。その結果、55音が一つのボーダーラインとして浮かび上がってきた。

以上を踏まえ、55音より長く、1ツイート(140字)より短い自由律の詩形をあらたに提案してみようと考えた。しかし、書いた自由詩の音数をいちいち数えるのは面倒である。そこで便宜的に、55音の代わりに50字を下限として採用することにしよう(ちなみに、前出の野村日魚子の自由律短歌は24~48字、墨作二郎の自由律川柳は37~39字であった)。最終的に、「おおよそ50字から140字の自由詩」をミディアムポエムとして提案してみたい。

ミディアムポエム:おおよそ50字から140字の自由詩

そして、ミディアムポエムを提案したねらいを改めてまとめておくと、次のようになる。

  1. 比較的短い詩形とすることで、短詩形の利点(制作の手軽さ、発表と鑑賞の容易さ、鑑賞を通したコミュニケーションの活発さ)を部分的に享受すること。

  2. 短すぎない詩形とすることで、定型律由来の短詩と競合しないこと。

ミディアムポエムという枠組みを通して、自由詩の作者と読者が増えること、さらにその間のコミュニケーションが増えることを期待している。

3-6 ミディアムポエムは新しいか?

ミディアムポエムは新しいのだろうか? 結論を言えば、ミディアムポエムは別に新しくない。これまでに書かれた自由詩の中で、ミディアムポエムとみなせる作品は少なくない。例えば、堀口大學の「砂の枕」、田中冬二の「くずの花」、八木重吉の「素朴な琴」などがある[8]。

砂の枕

砂の枕はくづれ易い
少女よ お行儀よくしませう
澤山な星が見てゐますれば
あらはな膝はかくしませう

堀口大學[8]

くずの花

ぢぢいと ばばあが
だまつて 湯にはひつてゐる
山の湯のくずの花
山の湯のくずの花

          黒薙温泉

田中冬二[8]

素朴な琴

この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美くしさに耐へかね
琴はしづかに鳴りいだすだらう

八木重吉[8]

このように、ミディアムポエムという詩形自体に新しさはない。しかし、自由詩という非常に大きな枠組みではなく、ミディアムポエムという限定された枠組みを提示することで、詩を読み書きするハードルが下がったり、詩に関するコミュニケーションが活発化したりすることを期待している。

4 ミディアムポエムの定義に関する補足

最後に、ミディアムポエムの定義に関する補足を述べて終わろうと思う。冒頭に掲載したツイートでは、ミディアムポエムを「短歌(31音)より長く、Twitterの1ツイート(140字)より短い自由詩」と定義した。これは自由詩の音数あるいは文字数のみに基づく定義であり、裏を返せば形式(行分け詩か散文詩かなど)や内容(テーマなど)は何でもよいということである。

文字数の推奨は50~130字である。自由律短歌や自由律川柳と差別化するためには、50字以上が良いだろう。また、ツイートする際にハッシュタグを含めるため、ミディアムポエム本文は130字以下とすると良いと思う。もちろんこれはあくまで推奨であって、遵守しなければならないルールというわけではない。参考程度にしてもらえればと思う。

5 さいごに

ここまで長々と書いてしまったが、ミディアムポエムを書いたり読んだする上では、ここに書いた知識が必要なわけではない。もし興味を持ってくれたら、ハッシュタグ #ミディアムポエム を使って、自分なりのミディアムポエムを書いてみてほしい。

※ 誤記等は河上のTwitter(@ruikawakamipoet)までご連絡いただけますと幸いです。ヘッダー画像はSSカード縦型メーカー(https://sscard.monokakitools.net/4_3.php)にて作成しました。

参考文献

[1] 小泉京美(2009)「詩・短歌・俳句・川柳の交差点—問題系としての短詩の生成—」『日本文学文化』9号, p.7-20
[2] テレ東BIZ「なぜいま短歌が“バズる”のか 現代短歌の第一人者の枡野浩一氏と分析【WBS】」Yahoo!ニュース 2022年11月9日更新 https://news.yahoo.co.jp/articles/678e2885502a47fb9abadca53dffabfab5172306 (2022年12月18日閲覧)
[3] 佐々木あらら「手軽さが魅力の「ツイッター短歌」」imidas 2010年3月19日更新 https://imidas.jp/jijikaitai/l-40-114-10-03-g379 (2022年12月18日閲覧)
[4] 和田博文(2011)「短詩運動と福富菁児一九二〇年代のアヴァンギャルドー」『総合研究所所報』8号, p.227-238
[5] 光本恵子(2012)『光本恵子歌集』砂子屋書房
[6] 小池正博(2020)『はじめまして現代川柳』書肆侃侃房
[7] 倉田紘文(1982)「滝口武士論 (一) : 詩誌『亜』の時代」『別府大学紀要』23号, p.17-27
[8] 高橋順子(2007)『日本の現代詩101』新書館
[9] 宮崎信義(1988)『宮崎信義短歌作品集』短歌研究社
[10] 未来山脈「短歌(口語短歌)とは」 https://mirai-sanmyaku.com/?page_id=16 (2022年12月18日閲覧)
[11] 野村日魚子(2022)『百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た』ナナロク社
[12] 小池正博「川柳における自由律」週刊「川柳時評」2010年12月3日更新 http://daenizumi.blogspot.com/2010/12/blog-post.html (2022年12月20日閲覧)
[13] 久留原昌宏(2002)「前田夕暮・自由律短歌成立の背景」『日本語と日本文学』35号, p.1-16
[14] 斎藤光陽編(1970)『前田夕暮全歌集』至文堂
[15] 現代俳句協会「現代俳句データベース」 https://www.haiku-data.jp/work_detail.php?cd=958 (2022年12月24日閲覧)
[16] 川柳新書刊行会(1958)『句集現代の川柳 : 川柳新書合本』川柳新書刊行会(国立国会図書館オンライン https://id.ndl.go.jp/bib/000000997567)