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僕がラグビー登山家になるまで

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2017年3月9日にラグビー登山家が生まれるまでに焦点を当て、過去を丁寧に振り返ったエッセ集です。
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#登山家

僕がラグビー登山家になるまで 現在 | 僕は全てはうまくいく話。

企業にスポンサーをお願いしても99%断られる。ネット上にある誹謗中傷に眠れない日もあった。弱気になろうと思えば、いくらでも弱気になれる。辞めようと思えば、いつだって辞められた。 しかし、バカだ。アホだ。と言われ続け、悔しい思いでいる事の方が圧倒的多い中でも、自分の信念を貫いた先には日本列島を震撼させる感動がある事をこのプロジェクトを通じて証明したい。 現代の日本はどうしても不安で押し潰されそうになってしまうものだと思う。前職はIT業界におり、以前はテクノロジー側から社会を

僕がラグビー登山家になるまで 32歳 | サンティアゴ巡礼の話。

僕は巡礼地を歩くのが好きである。日本で言えば、学生時代に四国お遍路八十八ヶ所、社会人になっても熊野古道を歩いていた。世界にも多くの巡礼地があるが、その中でひときわ光り輝く巡礼がある。サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼である。 サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の記録は、951年のものが最古です。ヤコブの遺骸の発見当初はガリシア地方に限定されていたサンティアゴ巡礼は次第にピレネー以北に拡大され11世紀にはヨーロッパ中から多くの巡礼者が集まり、最盛期の12世紀には年間5

僕がラグビー登山家になるまで 31歳 | 中古団地を購入し、DIYした時の話。

当たり前の事だが冒険をしようと思うと、多額の資金が必要となる。 僕、個人の感覚で言えば、途上国を中心に世界一周をするのであれば150万円ほどの予算で済む。しかし、世界的な冒険フレームを実行しようとすると世界一周の予算と比べて一桁変わってくる。 山好きの間で皆の憧れである世界七大陸最高峰はやり用にもよるが、ガイド登山で3000万円ほどと言われている。その大半がエベレスト登頂に関わるものであり、8000m級の山に酸素マスクをつけて事前に訓練することが推奨されており、決して7個

僕がラグビー登山家になるまで 30歳 | エンブレムを見てこの冒険を思いついた時の話 ②

僕は芸術の専門家ではないが、世界中放浪している身として、そこそこの数の博物館と美術館に訪れている。 世に知られている名作だけなく、名だたる美術館に置かれている美術品というのは作成者の遊び心やメッセージが記号として描かれている。何かしらの秘密がそこにはあり、絵画を眺め、それを読み解く作業というのは芸術ならではの楽しみになのだと思う。 世界的スポーツイベントのデザインには何かしらの秘密が隠されている。東京オリンピックについて、エンブレム騒動湧いた佐野氏が作成したデザインは19

僕がラグビー登山家になるまで 30歳 | エンブレムを見てこの冒険を思いついた時の話 ①

RWC2019のエンブレムが発表される前のこと。 2015年8月、東京オリンピックのエンブレム騒動で日本が揺れていた。ベルギーの劇場のロゴに似ていると指摘された問題でエンブレムのデザインを担当したアートディレクターの佐野研二郎氏は酷い「ネット私刑」を受けていた。自身の事務所のホームページには「人間として耐えられない限界状況」と記し、次のように告白している。 「私個人の会社のメールアドレスがネット上で話題にされ、様々なオンラインアカウントに無断で登録され、毎日、誹謗中傷のメ

僕がラグビー登山家になるまで 28歳 | ジンバブエで何を学んだかという話。

大きいことができる男になりたいとの思いで、青年海外協力隊に応募し、修羅の国と呼ばれていたジンバブエに赴任した。現場で求められることは基本的にやってはいたが、その思いが達成されたかどうか自分自身わからない。しかし、僕はジンバブエのことを第二の故郷とも思えるぐらいに好きになっていて、ジンバブエに対してささやかならが貢献したこの2年間をおそらくこれからの人生の中でずっと誇りにするものだと思う。 昨今のご時世、テクノロジーの発達によって、昔では考えられないようなことが実現可能である

僕がラグビー登山家になるまで 27歳 | ジンバブエへ赴任した時の話。

2012年1月。僕がジンバブエに赴任した時というのは、自国通貨が廃止され、米ドルに移管されて2年後のことである。 そのため、ハイパーインフレであった経済混乱が一息つき、苦しくもあるが復興への希望に満ち溢れていたタイミングと重なる。 国内でのジンバブエのイメージはどちらかというと、悪いイメージしか持てないかもしれないが、予想に反して、ジンバブエは素敵な国であった。気候が良く、人も気さくで、行った人は誰もが良い国と言う。旧ローデシア時代、イギリス人が丹精込めてこの国を創り上げ

僕がラグビー登山家になるまで 26歳 | 青年海外協力隊へ応募した時の話。

世界を旅をしていると、先進国と途上国の不条理に否が応でも見る機会があり、こんな僕でもささやかながら何かしらの貢献を一生に一度はしてみたいとの思いがフツフツと芽生えはじめていた。そのようなタイミングでボリビアを放浪していた時にたまたま青年海外協力隊の方とお会いした。アレコレ聞くうちに青年海外協力隊という今までチラッとだけ聞いた言葉であったものが具体的にイメージが湧き、いつしか憧れに変わっていた。内定を頂いた会社は昔からJICAに人を送る制度があり、僕はそれを知っていたのでいつか

僕がラグビー登山家になるまで 25歳 | データセンター中で見た3.11の話。

2011.3.11というのは誰もが忘れられない日であると思う。 入社2年目。僕は東京の西部の端の地図には記載されていない場所に1人いた。そこは真っ白の無機質な壁に覆われていて窓はなく、外は全く見えない。ドラゴンボールの「精神と時の部屋」のようなイメージと言えばいいだろうか。電磁波がありすぎて己の方向感覚を失う。 サーバーからの熱を冷却するために大量のファンが設置されており、床が小刻みに揺れている。部屋は寒く、何枚も重ね着をして僕はデーターセンター(以下、DC)の室内にいた

僕がラグビー登山家になるまで 24歳 | ファーストキャリアの話。

僕が就職活動中の間は、まだラグビーW杯の日本開催が決まっていなかったが、絶対に来るとの予想があった。そのこともあり、来るべきラグビーW杯関連の仕事に関わりたく、マスコミと広告代理店しか僕は考えていなかった。しかし、それが全滅し、僕は狼狽しきっていた。 どうしようと大学の掲示板を眺めていたら前職の大学推薦枠があった。僕は理工学部数理科学科ということもあり、ITとの親和性は高い。推薦といっても半分以上は落ちるのだが、これにかけるしかなかった。面接はボロボロだったと記憶しているが

僕がラグビー登山家になるまで 23歳 | お遍路の話。

お遍路をなぜやろうとしたのかきっかけというのは、海外をバックパッカーで周っている時に外国の方から日本のことをよく聞かれてもうまく答えられなかったからだ。 大学の先輩がお遍路をやったと聞き、メチャクチャ良い経験ができたと言っていた。信仰という僕の好奇心を強く刺激するものであり、やらない理由が見当たらなかった。 実際に経験してみて、お遍路は本当に良かった。確かに苦しい事の方が多いが、湧き水は身体に染み渡り、歩いた後の温泉は格別で、88箇所ものお寺(実際には、最初のお寺を戻り、

僕がラグビー登山家になるまで 22歳 | バックパッカーをしていた時の話。

「夢」であった花園に高校を卒業してから4年遅れでプレーすることができ、僕は燃え尽き症候群になっていた。同期や後輩たちに本当に申し訳ない思いが30を過ぎた歳になってもいまだにあるのだが、当時の自分の心境を素直に話すとラグビーで見たい風景を僕はだいたい見てしまったような感覚があった。2浪という劣等感を心の中でずっと引きずっており、今までやったことのない何かに挑戦してみたかった。それが、バックパッカーであった。 沢木耕太郎の「深夜特急」を読んだことも影響をしているが、僕は無類の映

僕がラグビー登山家になるまで 22歳 | 中国マフィアに監禁された時の話。

それは僕が22歳の春の出来事であった。 学生時代に『深夜特急』を読んでから、僕は高校からずっと続けていたラグビーとはまた別の世界を見てみたいとの思いに至り、部活後にバイトをし、貯金を貯め、なけなしのお金で部活がオフの間に旅をすることを決めた。 旅先は東南アジアと中国。予算は15万円ほど。一泊あたり300円ほどの安宿で泊まり、1日で使用するお金は1000円以下で過ごす予定であった。東南アジアの道中は、想像に反して予算以下で旅ができていた。現地の方々から多大なる親切を受け、ご

僕がラグビー登山家になるまで 21歳 | 花園で学生クラブ日本一になった時の話。

高校時代の「夢」は花園でプレーすることだった。 そんなこともあり「花園」の地が学生クラブの東西のチャンピオンが日本一を決める舞台であるとのことを入部する前から聞いていたので、高校時代の雪辱をいつかは果たしたいとの思いでいた。 大学2年時。メンバーにも恵まれ、僕たちは関東学生クラブで快進撃を続けていた。キャプテンのリーダーシップの元、敵陣でプレーするキック主体の戦術で、ラインアウトからグイグイモールでトライをとる固い試合運びで僕たちのチームは連勝街道を突き進んでいた。昨年大