インド哲学者の数奇な運命
2024年前期のNHK朝ドラ「虎に翼」で主人公の寅子の夫直道が戦死したという展開になった。このドラマの登場人物はどちらかというと富裕層だったのであまり戦争への徴用とその悲劇は予想しづらかったが、改めてこの戦争を総力戦として描く姿勢に共感した。その上で、その総力戦を関係者が全力で回避させたあるインド哲学者のエピソードを思い出した。記録に残っていない部分が多いが、私がその時代を知っている教授から直接聴いた話をそのまま書いてみたい。
誤解や間違いがあればご指摘頂くとありがたい。
その都度修正して行きたい。
東京帝国大学の印度哲学教室では和辻哲郎と激しい論争を繰り広げたこともある気鋭の印度哲学者木村泰賢教授急逝し、当時東北帝国大学教授であった宇井伯寿が急遽後任になった。
東北帝国大学には宇井を支えた助教授として金倉円照が残された。その後に東京帝国大学印度哲学教室に助教授の人事が出て、周りは宇井を支えた金倉が助教授に選出されると思っていた。金倉もそう思っていたかもしれない。実際金倉の業績は令和の今も光を失わない素晴らしいものだし、人格も素晴らしい人だった聞く。
だが蓋を開けると若干28歳の若手研究者が東京帝国大学助教授に選ばれた。時に昭和18年、朝ドラの登場人物直道や優三が招集された時期だった。異例中の異例の人事。
実はこの異例の人事は宇井の教え子である彼を招集させないために宇井が苦渋の決断で行ったものだった。その彼の名前を中村元という。その後天才的な語学力を駆使して世界的なインド学者になる人物だった
金倉は自らの出身校の東京帝国大学には戻れなかったが、その後東北帝国大学や早稲田大学で後進を育て、その東北帝国大学の教え子たちが新教育制度における名古屋大学や九州大学、早稲田大学や東洋大学などでさらにインド哲学の学徒たちを導くことになる。東大以外の関係者からすると、金倉が東大に戻らずに東北大学を始めとする様々な大学でインド哲学の種を蒔き育ててくれたことこそ貴重である。歴史というのは本当に短いスパンで見てもわからない。
もし宇井が中村ではなく金倉を東京帝国大学助教授に迎えていたら、世界的なインド哲学者・比較思想論の創始者である中村元は学徒出陣で出征し亡くなっていたかもしれない。世界的なインド哲学者・比較思想学者の膨大な業績は生まれていなかったかもしれない。
一方で金倉から始まる東北大学のインド哲学研究の学統、それにつらなる名古屋大学や九州大学などの旧帝大のインド哲学研究の礎は築かれなかったかもしれない。そして既に宗門的関心から仏教研究を進めていた各仏教系大学の研究を相対化し得る早稲田大学や東洋大学のインド哲学仏教研究も行き詰まっていたかもしれない。
戦争は、かくも様々な人の人生や学問文化の将来を左右する。
だからこそ戦争は、やってはいけない、のではなく、おこさせてはいけないのだ。
この話は30年ほど前70代だった教授の昔話として聴いた話。ぎりぎり私たちの世代(50代前後)が聴けた話。そうか、今後はこれを私たちの世代が語り継いで行かないといけないのだなと思う。ナラティブな歴史として。