父を看取らなかった日

父が危篤だ、と連絡を受けたのは午前11時ごろのことだった。母からのLINE。
お父さんが危篤だと妹さんから連絡を受けました。あなたたちに会いたがっているみたいです。姉弟2人とも東京にいるから会いに行くのは難しいと思うと伝えてあります。お母さんは行きません。とりあえず電話だけでもしてみてください。
そしてそこには見知らぬ父の妹の電話番号が書かれていた。

父には確か、お姉さんが1人、妹さんが2人いた。気がする。誰のことも覚えていない。幼少期から父の実家との交流はなかった。父の実家はとある宗教団体に属していて、それが理由で母はあちらの家族との縁を切っていた。わたしたちが会うことも嫌がったので、父の実家との縁は薄い。おじいちゃんやおばあちゃんの記憶もない。父の妹というこの人のことも名前にこそ見覚えはあるが、誰なのかわからない。

瞬時に電話しようと思ったが、でもいったい何を話すのだろう。冒頭はどうすれば。危篤だと言われているのにお元気ですか?はない。今までまったく連絡もなかったのに、突然、それも死ぬ間際になって子供たちに会いたくなるものなのか?それまで何の音沙汰もなかったのに?いやでも最後だからこそ?複雑な思いが駆け巡ると同時に、先走って涙がぼろぼろ出てくる。なんでこんなことに。なんでこのタイミングで。わたしはただでさえ電話が苦手だった。しかも今日は午後から友人と遊ぶ予定がある。ここで電話をして、もしも今すぐ会いにきてほしいという話になってしまって、断れなくて、そうしたらこの後の友人との約束を反故にしてしまう。何ヶ月も前から楽しみにしてせっかくお店を予約してくれたのに。どうしよう。どうしよう。親の死に目だというのに、わたしはお店の予約の心配ばかりしていた。

ひとりではどうすることもできなかったので、弟に聞いてみた。弟にも母から連絡がいっているはず、もう電話しただろうか。パパのこと聞いた?怖くて連絡ができない。どうしよう。そう伝えると、弟は、今は手が離せないからあとで連絡してみる、会いに行くのも現実的には難しいと言った。今は手が離せないから。わたしはそれを聞いて、ああよかったと安堵した。こういう案件であっても後回しにしてもいいものなのだ。そして会いにも行かなくていい。なんとなく許された気持ちになって、少し落ち着くことができた。時計を見る。11時38分。まだ友人との約束まで時間はある。ここで30分くらい話し込んでしまったとしても、間に合う。計算してから、電話番号をタップした。

電話口の父の妹さんはとても優しい人だった。もしもし、と告げてから、感情が爆発して泣いてしまい何も言えずにいるわたしのことをすぐに父の娘だと気づいてくれて、先導して話し始めてくれる。⚪︎⚪︎ちゃん、電話ありがとうね。何歳になったんやっけ?確かうちの子と同い年くらいやね。今お兄ちゃんの耳のとこに電話当てるね、まだ声聞こえると思う。ガサゴソと携帯電話を移動する音がする、空気の音、ふうふうと呼吸の音、機械の音。お兄ちゃん、わかる?⚪︎⚪︎ちゃんやで。電話の向こうで父に話しかける妹さんの声が聞こえる。子供をあやすような声だ。よかったなあ、電話くれたで。父はうんとだけ答える。わたしはただただ泣いて何も言えなかった。パパ、と一言だけ声に出して、あとはもう何も。父は答えた。たぶん、うん、って言った。息が荒かった。それしか覚えていない。もっと何か気の利いたことや、父を励ますようなことや、何か言わなきゃいけなかったのに、胸がいっぱいになって、喋れなくなって、今から会いにいくとも言えなかった。
こんな時やからね、一か八か連絡とれないかと思ってね、頼んでみたの。ありがとうね。お母さんにもお礼伝えておいてね。本当にありがとう。そして電話は切れた。わたしは結局、何も言えないままだった。

妹さんは、わたしたちに連絡がとれることを一か八かと表現した。この人たちはそんな気持ちだったんだと思った。わたしからしたら、連絡なんてとろうとすればいつでもできた。拒否なんてしてない。関わらないでとも、連絡しないでとも言ってない。でも向こうにとってはこれは一か八かのことで、まさかわたしたちから電話があるなんて思ってなかったんだな。
会いに来てほしいようなことは何も言われなかった。事前に母から難しいと告げられていたからかもしれない。どこの病院にいるとか、そういったことも何も言われなかった。ずっとお酒ばっかり飲んでたからね、自業自得やねん。妹さんはそう言った。ちゃんと最後までわたしがみます。電話くれてありがとう。声が聞けてお兄ちゃんも喜んでる。そう言われたとき、居た堪れなくなって、迷惑かけてごめんなさい、と言った。父を見捨ててごめんなさい、と心の中では思っていた。口には出せなかったけど。妹さんは否定してくれた。本来はわたしがやらなくちゃいけないことだったんじゃないのか?っていう気持ちと、でももう関係ないという気持ちの両方に押しつぶされそうになっていた。

会いにいったほうがいいのではないか?
電話を切ってから、頭をよぎる。親なんだから、やっぱり駆けつけなくちゃいけないのではないか?
友人との待ち合わせがある、お店の予約もしてある、しかも明日は朝早くから仕事がある、わたしが責任者だから休むわけにはいかない。そのすべてがなければ、行こうかとも思った。弟は現実的には難しいと言っていた。それはそうだ。そうなのだ。会いに行くには遠い。明日の夜なら、仕事が終わってから新幹線に乗れば夜には着けるかもしれない。でも、危篤って?いったいどのくらいの猶予があるのだろう。もし、向かっている間に死んでしまったら?そのときわたしはどうするのだろう。

わたしの父は、63歳だった。
死ぬには早すぎる。そう思った。まだ心の準備ができていなかった。わたしの記憶の中の父は、一緒に暮らしていた日々の姿のまま止まっていて、そこから年をとらない。最後に会ったときでさえ、その頃から少し老いてしまった父の姿を見て心が痛んだというのに。自分の父親がこんなふうになってしまったことが信じられなかった。白髪が増え、肌は萎れて、歯が抜けていた。受け入れがたかった。あの父が、死ぬのだ。死ぬということは、命が絶えるということで、この世からいなくなるということで、もう二度と会うことはないと思ってはいたけど、それが本当の意味で現実になるとは思わなかった。まだ。まだ。
だけど、まだとはいっても、心の準備が整う日なんていうものは果たして訪れたのだろうか。10年後、20年後にもなれば、親の死について何らかの決着がついたのだろうか。今となってはわからない。

母と父が離婚した後、父から直接わたしに連絡してきたことはなかった。メールアドレスも、電話番号も知っていたけど、わたしも連絡しなかった。
父はどんな暮らしをしていたのか。時折、母が父の近況を知らせてくれた。実家の方に戻ったみたい。妹さんが近くにおって、その人も離婚してるみたいやから、いろいろ面倒見てくれてるみたい。とかなんとか。

最後に会ったのはおそらく二十歳の誕生日だ。父は1年に1回、誕生日のときだけお小遣いを渡しにきてくれた。でもそれも2年で終わった。2度目のときたまたまわたしは家にいて、父と鉢合わせた。お互いに気まずすぎて何を話したのか覚えていない、何も話さなかったかもしれない。
二十歳の誕生日、封筒の中にはお金と手紙が入っていた。父の字だ。端正で綺麗な字を書く人だった。お誕生日おめでとう。元気にしていますか。離婚してから⚪︎⚪︎のことを思い出さない日はありません。そのようなことが書いてあったと思う。会話下手な父が手紙をくれたことは純粋に嬉しかった。最後に、追伸。二十歳になったのでもう選挙に行けるようになりましたね。何々党の誰々先生に投票しましょう。それを読んで崩れ落ちた。わんわん泣いた。父と暮らしているときにその存在を感じたことはなかったけれど、宗教ってこういうことなんだ。思い知って、その日から父を思うことをやめた。わたしは父を恨んでいるんだと思うようになった。その手紙も、今ではどこにやったか覚えていない。捨てたのかもしれない。

それからは消息不明で、父が半分払ってくれていた家のローンを振り込んでくれなくなったから家を売らないといけない、と母から言われたときには、もう父とは今後一生関わることはないんだと思った。
(数年前、父が生活保護を受けることになったと知らせが届いたので、このところはそれで生きていたのだと思う。わたしはそのとき連絡してみるか迷って、でも二十歳の手紙事件があったので関わることをやめた。悔やんでいたけどいつしかその書類のことも忘れてしまった。)

人は狼狽するとなにもできなくなるようで、しばらく床に座り込んだままだった。時間がない。それなのに立ち上がれない。会いに行くのなら、急いで準備をしなきゃいけない。友人にも話をしないと。職場にも。妹さんにも。どこの病院にいるのか聞かないといけないし、もう一度電話をしなきゃ。
涙も鼻水も止まらなかった。泣いても泣いてもかんでもかんでも出てくる。友人とはお店の予約の1時間前に待ち合わせをして、デパートに箸置きを見に行くつもりだった。このまま動けないでいたら、間に合わないかもしれない。とりあえず友人に一報を入れる。父が危篤になって。寝耳に水とはまさにこのことだろう。文字を打ちながら、自分でもまだ理解しきれない。どう伝えていいのかもわからない。会いに行ったほうがいいのかもしれないけど、複雑で、どうしたらいいのかわからない、でもせっかくお店を予約してくれたからそっちに行かなきゃとも思っている。わたしはまだ予約に固執している。会いにいったほうがいいんじゃない?人は亡くなったら会えないよ、予約のことは気にしなくていいから会いに行きな。友人にそう言われて、やっぱり会いに行くべきか、と思い直す。
続けて職場にも連絡した。父が危篤で向こうに行くかもしれない、できればお休みをもらいたい、無理なら明日の仕事は出ます。でもよく考えたら父が危篤だと言っている人に対して働けなんて言う人はいなくて、社長も職場のスタッフたちも休暇を取らせてくれた。(数年前に祖父が亡くなったとき泣きながら当時の職場に連絡して上司に休むのは無理ですと言われて出勤したことを思い出した、祖父と父ではちょっと違うのかもしれないけど、あれは上司も自分も頭がおかしかったな)

LINEの通知音が鳴る。弟だった。電話したで、会いにいけんからとりあえず写真送っといたわ。それを見て絶句する。そうか、写真か。なるほど。思いもつかなかった。会いにいけなくても、写真を送れば姿は見せられるのだ。姉の写真も送っとこうか?言われる。お願いします。言う。姉の写真探すのめんどいからください。言われる。カメラロールを延々遡って、自分の写真が全くと言っていいほど無いという事実を知った。
弟は冷静だった。動揺を打ち明けるわたしに対して、俺は案外なにも思わんかったわ、自分でもドライすぎてびっくり、驚いた顔の絵文字付きでそう言った。ついでに姉にもあげよう、と、弟と弟の子供たちが写った写真が送られてくる。かわいい。顔の作りから弟たちの遺伝子が受け継がれているのを感じる。最近うちの子はピクミンにハマってて…。弟はだんだんと普通の、雑談をしてくれる。
親になると人はこんなに強くなるのか?わたしの弟がすごいだけか?いつもの弟がここにいてくれたことに再度安堵して、わたしにも冷静さが少しずつ戻ってきた。どんなにわたしが泣いたり焦ったり狼狽たりしても、ここにはいつもの弟がいる。なんて心強い。

写真を送るなんて思いつかなかった。それって父の妹さんのLINEがあるってことだ。急いで友達欄から探し出して、わたしも妹さんにメッセージを送った。嗚咽していても、文字は打てる。電話は苦手でも、わたしには文章が書ける。
連絡をくれたお礼と最後を見てくれると言うことについてのお礼、思いの丈をとにかく打って送ると、妹さんから返信が来た。写真をありがとう、見せると顔が明るくなりました、お兄ちゃんの写真です、見たくないかもしれないけど、いい顔してくれました。そして送られてくる。写真。そこに写っていたのは紛れもなくわたしの父だった。年老いた父が優しく笑っていた。もう、見るからに肝臓や腎臓が悪くなっていそうな肌の色で、鼻にチューブを入れられていて、しわしわで63歳とは思えぬ老けようで、でもしっかり笑っていた。
いい顔だ。自分の頬が緩んだのがわかった。心の底から、ぎゅっと弾むような気持ちが溢れ出ていた。嬉しかった。久しぶりに父の顔を見て、ああずっと会いたかったんだなと思った。わたしは父のことが好きだったんだな、と。なんだかもうそれだけでよかった。母も祖母も父のことを良く言わない、弟も父をあまり良く思っていない。それはそうだ。だからと言って、わたしまで同じように父を恨むことはないし、ちょっと嫌いでちょっと好きでもいいし、父と過ごしたすべてを悪い思い出にしなくてもいい。もちろん、絶対に許せないことがあったっていい。わたしはわたしなりに父を思う、でよかったのだ。
会いにいかなくても大丈夫だ。ちゃんと繋がった。会いに行くのは怖かった。怖いのと、面倒だと思う気持ちも確かにあって、そんな感情が自分の中にあると目の当たりにすることも嫌だった。会いに行くことで生まれる別の後悔もあるかもしれない。でも、会いにいかない、という選択肢に後悔はない。この写真のやりとりで、わたしたちなりの弔いができたと思った。

借金は作るし(それも3回も、怖い人たちから電話が来るから家の電話には出ないように母から言われていた)
子供には無関心だし(わたしが大学に通っていたことも知らなかった)
職場の社長に脅され違法すれすれのことをやらされてバレたら全部自分のせいにされてお給料も貰えなくてでもなにも言わない(母が社長を訴えようと弁護士と相談していたけど直前になって父が争いは嫌だと言って結局泣き寝入り)
家ではいつもお酒を飲んで酔っ払ってへらへらしている(そうでもしないと毎日やってられなかったのかもしれない)
たぶん、碌でもない人だった。
でもわたしにとっては1人しかいない父親だった。

父の書く文字、特に数字は美しかった、色が白くて日焼けするといつも真っ赤になっていた、小学生のころよく連れていってもらった古本屋さん、1000円もらってゲーセンで遊んだことや、本屋で立ち読みしている父の姿、県勢を読むのが好きだった、JRの時刻表が載った分厚い本を見ながら書いていた想像で楽しむ電車の旅ノート、何冊もあった、架空の街の地図、夜中一緒に見たアニメ、イニシャルD、父の乗っていた白いワゴン車、レモンのにおい、カレーに生卵入れることや酢豚が好きなこと、そういう父とのこまごました思い出をわたしはまだ覚えている。

わたしはその後、予定通り友人と会った。15時からのお店の予約、どら焼きを食べた。どら焼きは表面がさくっとしていて、焼きたてでいい香りがして、ほんのり温かくて、とても美味しかった。美味しくて、友人とたくさん話をして、泣いて、箸置きを見に行って、かわいい食器たちにときめいたりして、いつも通りの時間を過ごした。その夜。ちょうど家路に着こうとした、20時20分ごろ、父が息を引きとった、と母からの連絡で知った。いい顔をしていたらしい。

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