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行水の 捨てどころなし 虫の声 上島鬼貫

(Youtubeに挙げた動画の台本です)
https://www.youtube.com/watch?v=vt7IJjxk7-Y

こんにちは ずんだもんなのだ。今回も上島鬼貫の句なのだ。

ずんだもんは、行水を知らないのだ。庭先にたらいを置いて、たらいに水を浅くいれ、裸になってたらいに入って手ぬぐいで体を拭くというイメージなのだ。

調べてみると、行水という言葉は仏教から来ていて、湯を沸かすのに手間がかかった時代に、風呂の代わりに体を清潔にするためや、夏に涼をとるために行っていたそうなのだ。昭和30年代頃までは、行われていたそうなのだ。昔の日本人は裸に対しておおらかだったので、バスや電車の中で授乳をしていたりもしたから、たぶん見られることに抵抗はなかったとおもうのだ。

浮世絵などを見ても、大きめの浅いたらいを使っているので、鬼貫もたぶん同じようなたらいを使って行水をしていたと思うのだ。

季節は、夏の終わりから秋にかけての頃で、もしかすると昼間日向にたらいをおいて温めた水で、夕方になるころ行水をしていたかもしれないのだ。

ところで、この虫というのは、夏の虫なのか、秋の虫なのかわからないと、ずんだもんは思うのだ。この俳句は、夏の季語の行水と、秋の季語の虫の声の季重ねになっていて、虫の声を主として秋の句とするらしいのだ。けれど、行水の印象が強いので、もしかすると、この虫の声は鈴虫やコオロギなどの美しい虫の声ではなくて、夏の昼間になくキリギリスの声かもしれないと思うのだ

鬼貫は、美しい虫の声を止めてしまうのが惜しくて行水の捨てどころがないといったのではなくて、一生懸命鳴いている虫の邪魔をしては申し訳ないと考えたのではないかと思うのだ。

なんにせよ、少し誇張し過ぎじゃないかと思ったのは昔の人も同じで、そんなことをしていたら、虫が鳴き止む朝方まで水を捨てられないじゃないかと「鬼貫は一晩たらいを持ち歩き」という川柳まであったのだ。
 
今回の動画はここまで。また次回お会いしましょうなのだ。

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