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その一言が支えになる


たまにふと思い出すメッセージがある。

それは保健室登校を続けていた高校3年生の冬。
私の高校はカトリック系だったのでクリスマス会の日には学校側からチョコレートが配られた。(クリスマス会といってもキラキラ飾り付けたりそんなのじゃなくて、聖歌を歌ったり聖書の一部を読んだり神聖なやつ。寝てる人もたくさん。笑)

私はクリスマス会にも出席できず保健室に籠っていたのだが、終わった後に保健室の先生経由でチョコレートはもらえた。そのチョコレートの箱に一通のメッセージが挟まれていた。

クリスマスおめでとう。
あなたの努力には胸が熱くなりました。

筆跡から見てたぶん担任の先生だったと思う。

いま振り返っていても涙が出てくる。
いっそのこと死んだ方が楽なんじゃないかと思い続けた2年にわたる苦しみは私を疑心暗鬼にさせ、自ら周りの先生や友達と距離を置くようになっていた。それほどまでにしんどい経験だったがそれを見守って応援してくれている人がいたのだ。


そしてそれは先生だけではなかった。
その数日後同級生から届いた年賀状には「Jinoが頑張っている姿を見て私も頑張ろうって思えるよ」と書いてあった。
当時の私はとても驚いた。親友とかそこまで仲がいいわけでもなかったその子がそんなふうに思ってくれていたことも、陰ながら私のことを見ていてくれたことも知らなかったから。


たった一言で「もうちょっと頑張ろう」って思えたり、私はここに存在していいんだと思えるようになるのだ。


好意を伝えるということ

やっぱり、好きだよとか いつも見てるよ応援してるよというのは伝えた方がいい。

大人になって自ら何らかの作品を生み出したりいろんな人の作品を観るようになって余計にそう思うことが増えた。


私も含めて何かを創造したり表に出たりしている人は「誰も見てない、誰も気に留めてない」と勝手に孤独を感じて勝手につぶれていくタイプのひとが多い気がする。自意識過剰と言われればそれまでだが、とても繊細で敏感な人が多い。

名の知れた表現者でもそうだし、twitter上でいいなあと思っていたイラストレーターさんがある日忽然とアカウントを消失させていたりということがよくある。(その時のファン側の喪失感と言ったら…!) 

いいね数などでその自信が回復するほど簡単な問題ではないけれど、私は「いつもあなたの作品をみてるし楽しみにしてるから、頼むから続けてね」という気持ちを込めて♡を押したり、時にはコメントをしている。

創る側の不安や少しの期待も痛いほどにわかるから。


私のnoteにも、同じように病気や障がいを抱えている人から励ましの言葉がきたり、そうでなくても「Jinoさんの記事を読んでると自分も頑張ろうと思える」的なコメントが来たりして、そのたびにああやっててよかったんだなと思う。 

真実だけが人の心を動かす

結局はどんな作品でもどんな文章でもどんな姿でも、それがその人の“真実”であれば人の心は動かされるんだろうなあと思った。
そして受け取った側が気持ちをまたお返しすることで、また新たに生み出されていくものがあるんだろうなあ、と。


「推しは推せるときに推せ」という言葉があるけどそれはなにも推し活だけの話ではなくて、自分の周りにいる人にも「大切に想ってるよ、見てるよ」と伝えられるときに伝えるのはとても大切だと思った。

意外にそのたった一言で救われたりするから。


ではまた💕

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