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(ゆる遍)四国八十八箇所霊場を巡る旅〜11番札所〜

ゆるいお遍路旅、略して「ゆる遍」は続きます。
なんの情報もありませんが、ぶらぶらと気楽にお寺をめぐりませんか。
前回は、こちら

人は何を願って、1200キロとも言われる長い道のりを、お遍路に出るのでしょう。
お遍路には、様々な方法があります。
徒歩、自転車やバイク、私たちのような自家用車、そして観光バス。
一気に数日から数十日かけてまわる人もいれば、休みを利用して、数か月、数年をかけて。やり方は様々だけれど、こんな長い道のりを全部回ってみようと思うのは、何かしらの理由があるからだと思います。
誰かの弔い、人との交流、家族や友人との時間の共有、自分を見つめなおすこと。人の数だけ、お遍路をする理由があります。

私の場合は、地元をもっと知りたいという気持ちです。
生まれてずっと四国徳島に住んでいるにもかかわらず、地元のことを全然知りません。若いころは、いつも目は都会に向いていて、こんな何もない田舎で、私のたった一度の人生が埋もれてしまうのかと苦々しく思っていたことも事実。
でも、年齢を重ね、地域の暮らしに関わる仕事をしていることもあって、ここも案外悪くない、もっと自分の住んでいるところを知りたいと思うようになりました。

いまだに、県民は「徳島には何にもないよ」というのが口癖になってい
ます。でもそれって本当にそうなんでしょうか。
何百年と人が暮らしてきて、何にもないなんてことあるんでしょうか。
もちろん、京都や奈良みたいに、政治の中心だったこともないし、北海道や沖縄のような、まったく見たこともない風景があるわけじゃありません。
どこまで行ったって、山と川しかないところだけれど、そこに人が住んで、少しでも豊かになろうと苦心しながら生きてきたのなら、そこには何かあるはずです。

先日、すだちのことをnoteに書きました。

思った以上に反応があって驚きました。
私にとっては、すだちを料理に使うことなんて当たり前すぎて、書こうとすら思ってなかったんです。すだちを送った友人たちに、使い方をお伝えするだけに書いたnoteでしたが、「私も使ってみたい」というコメントをたくさんいただきました。ありがとうございました。

こんなふうに、私たちが何気なく当たり前に持っているもの、使っているものの中に、とても貴重な、ほかにはないものが隠れているんですね。
そういうダイヤの原石を探して、noteに書くことで、少しでも輝いてもらいたいというのが、今の私の思いです。

さて、ここまでで1000字も書いてしまったので、本題にまいりましょう。

11番札所 藤井寺

1番札所から10番札所までは、徳島県を西から東へ流れる吉野川の北岸を北へ北へと昇ってきましたが、11番札所へは、吉野川を渡ります。ここから先は南に下って、高知へ抜けていきます。

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駐車場には、大きな観光バスが停車しています。お遍路姿のご年配の集団が、次々にバスを降りてきて、私たちの前をぞろぞろと歩いて行かれました。

山門をくぐります。
時刻は午後3時を回ろうとしています。
車から降りると、小雨が降ってきました。
冬至が近づく11月下旬、そして山際ということあって、お寺の境内はすでに薄暗い。

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外観は、かなり古めかしい印象の本堂ですが、中は意外にも豪華絢爛。

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仏様が、きらびやかな装飾のなかに鎮座されています。美しい。
そして、天井画がまた圧巻。雲龍がこちらを見据えています。眼光の鋭さにゾクッとします。

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ひしゃくの並びが美しい。秩序を崩さないように元通りにします。

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線香も中心に立ててあって、波紋のように砂が整えられていました。

お参りを終えて、戻ります。

この藤井寺で、不思議な銅像(石像?)を見つけました。

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野球のバットのようなゆるい作りに、目が離せません。
調べてもよくわからなかったのですが、どうやらこのお寺の再建に尽力した地元の名士のようです。
それにしても、リアリティを追求したのかしていないのか、謎が残ります。

寺の横を流れる小川の水音、風が揺らす木々のざわめきをかき消すように、先ほどの年配のお遍路集団の方が読経する声が、響きます。
一人一人が何を思って、般若心経を唱えているのでしょうか。
自分や家族の安寧、世界平和、厄落とし、もしかすると宝くじやコンサートチケットの当選かもしれません。人の数だけ願いはあります。
手を合わせ、般若心経を唱えていると、今一番自分が欲しているもの、願いが言葉になって浮かんできます。
ああ、こういうことを求めていたんだ。ならば、そこを目指して努力しなくちゃいけないんだと気づかされます。
煩悩を捨てよという仏教の教えとは相反するものがあるかもしれませんが、人は願いがあるから生きられるのかもしれないと、森のお寺で考えました。

11番札所を訪れたのは、昨年の11月末。
次の12番札所「焼山寺」は、山のてっぺんにあります。そこまでの遍路道は「遍路ころがし」と呼ばれる、難所中の難所。
冬には道が凍り、雪が積もることもあるので、「春になったら行こう」と相談していたのに、コロナ禍で中断中。
早く再開したい気持ちですが、第2波、第3波が来るかもしれず、お互い仕事を持つ身としては感染は避けねばならず、なかなかゴーサインが出せずにいます。
とりあえずは、今まで巡ってきたところを全部記録し終えたので、次へのステップとします。

ゆる遍シリーズは、マガジンにまとめています。



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