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感情ではなく、情景を書きたい

忙しいのに、うっかり冒頭を読み始めたら、目が止まらなくなり、読み終えても、頭から離れなかった。

今朝、とある文学賞の受賞作が地元紙に掲載されていた。
それほど長くないエッセイ。

あらすじを書くと、大きな緩急はなく、どこにでもありそうな話。描かれているのは、たぶん1時間ほどの出来事。

「私」が駅で列車を待っている。そこに1人の外国人観光客がやってきて、「私」に乗るべき列車が合っているかを片言の日本語で尋ねる。
特に2人の間に会話もなく、来た列車に乗り込み、それぞれに目的の駅で降りる。
「私」が降りた街で、寄り添って歩く老夫婦二人と出会う。彼らに会うのは二度目。一度目は自分が元気だったころ。そして二度目の今日の「私」は心の病を得ている。「私」は老夫婦の姿に励まされ、病を克服しようと誓う。

冒頭の数行で、ぐぐっと「私」の世界に引き込まれた。
猛暑の熱、お遍路の白装束を身につけた金髪の男性の白、ディーゼル列車の轟音、うるさいほどの蝉の鳴き声、老夫婦の話し声。
心の病を得て、都会から地方へ下った「私」の悔しさ、孤独。
まるで、「私」のそばをカメラで追いかけているようでいて、「私」そのものになったようでもあって、とても不思議な感覚を味わった。

このエッセイには、説明的な表現が一切ない。情景をただ淡々と書き記しているように思えるのに、その文章のすき間から、じわりと感情が文章に表れない景色や色や音が湯気のように立ち上る。

すごい。言葉を失って「ううー」とうなった。
私には書けないわ。これが地方の文学賞レベルなら、有名出版社の文学賞など、宇宙に行くより無理なんだろうな。
ばたんと新聞を閉じた。

でも、1日中、このエッセイのことが頭から離れない。
だから、もう降参することにした。
そもそも自分なんかと比べる時点で間違ってる。
単純に「私、このエッセイが、めちゃくちゃ好き」
そんでもって、
「私も、いつかこういう文章が書けるようになりたいなと思った」でいい。

情景を丁寧に描きながら、そこに自分のいろんな感情を埋め込んで、地雷のように読むとあふれだす文章が書きたい。

閉じた新聞を、もう一度広げて再読し、「うーん、やっぱりすごい」と、心の中でうなって、今度はそっとたたんで、脇においた。

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