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死生観

よく考えると、これまで、矛盾した死後の世界をイメージしてきた。

最期を迎えると、すでにこの世を去っていた両親とか事故や病気で先に逝っていってしまった知り合いとかが、まぶしい光の輝きのなかに懐かしい笑顔で現れてくれるんだろうというような、あっち側の人たちとの再会のイメージ。

一方で、きちんと体系化された宗教での信教ということではないけれど、なんとなく、輪廻転生による生まれ変わりが個人的に腑に落ちるので、死んだらまた生まれ変わるんだろうと思っている自分。

矛盾は、あっちの世界では時間の流れがこっちと違うんだろうけど、10年前に死んだ知り合いは生まれ変わってしまってるんじゃないか?待ってて迎えてくれる人たちの輪廻転生のことは考えていなかったなということ。

あまり深い話もできず30年前近くに逝ってしまった父親とか、20年前に別れを告げた母親とか、輪廻転生ということなら、もうとっくにどこかで生まれ変わって次の人生を送っているんじゃないだろうか。となると、あっちいっても会えないということかな。自分は、海外が長くなってしまった宿命の親不孝、二人とも死に目に会えていない。話してみたいことは沢山あるが、いざあっちへいったらもう次の人生にいってしまったんで会えないよとなってしまうのだろうか。

生半可な知識だが、キリスト教やイスラム教だと、死んでも魂は存在を続けて、全員が世の中全体の「最期の審判」に呼び起こされて審判を受けることになると。それに対して、世界4大宗教?のあと2つ、仏教とかヒンズーは「輪廻転生」で、悟りに達するまでは何度も生を受ける。

前者だと、人類の歴史が3億年としたら、平均40才くらい生きたとしてもかなりの数の「魂」がどこかで審判を待っていることになるが、混み合ってないだろうか。それともせいぜい人類2000年くらいの話として理解したほうがいいのか。それでも総数はかなりになるが。

後者でも、世界の人間の人口は70億人とかに膨れ上がってきているということは、増加した分の「魂」はどこから供給されているんだろうか、動物や虫からのアップグレード分なのだろうかという疑問も湧く。

まあ、宇宙のはてはどうなってるんだろうとか、時間はいつ始まったんだろうとか、科学では答えがでていないこともあるんだし(ビッグバン理論で宇宙は常に拡張しているというのも、ビッグバンの前の時間は?と聞きたくなる)、答えの無い謎をいくつも抱えて、人は生きて、死んでいく。そんな中で、心から宗教の描く死生観を信じて逝けるひとは、死にむけての「心の平穏」があろうのだろう。羨ましい。


いや、こんな考え方はどうかなと今日ふと思った。

人間の体って本当にすごくできていて、案外、脳が肉体が最期を迎える瞬間にその人の人生の記憶から素晴らしい動画クリップを作り出してくれて、死のプロセスを苦痛のないものにしてくれているのではないか?一世一代の脳による動画編集。人気YouTuber顔負けの動画編集技術でのフラッシュバック。

臨死体験で三途の河までいったら向こう側に死んだ両親が来ていてくれたとか、もし両親の記憶がない人だったら、人生で一番心を許した人だったりが優しく迎えに来てくれたのが見えたとかいうが、そういうイメージ動画クリップを脳が作ってくれているんじゃないのだろうか。

こう考えると、冒頭で述べた矛盾も一応辻褄があう。お迎えは脳が作り上げてくれる現世の記憶からの創作クリップで、お迎えに来てくれる死者たちはもうとっくに次へと転生している。死後に「魂」が肉体を離れると、なんらかの仕組みで次なる生へと組み込まれていく。

辻褄があうというより、こう考えると、なんとなく腑に落ちるという程度のことであるが。これから科学の進歩で考えてもいなかったことが実現するとしたら、ビッグデータがあぶりだす、死のプロセスの真実なんじゃないかなとも思う。そういう発見が、人々の心に平穏をもたらしてくれるものだといいが。

小学生時代だったか、一時期、星新一のSFショートショートをたくさん読んだが、中に地球の最期にからんだ秀作があった。タイトルとか忘れてしまったが、こんなあらすじ。

あるとき、街中にホログラムのような実体はないが皆にみえる形で恐竜とか太古の動物が現れる。世界中で。だんだんとそれが進化していって、原始人時代の人類だとかのホログラムになって、最後に、人類の歴史上のパノラマが見えて近世あたりがみえたころに、巨大な彗星だかが地球に衝突して人類は滅びる。

そんなあらすじだったと思う。人間が死期に走馬灯のように一生のフラッシュバックを見るように、人類が地球の歴史のフラッシュバックを見るという話だった。壮大な話だな、星新一って凄いなと思った。

先週、今月になって1年ぶりにリリースされたネットフリックスの「オザーク」というアメリカの犯罪ドラマシリーズの最新シーズンを一気見した。これお勧め。ミズーリの片田舎で、ごく普通のまっとうな家族が、トチ狂ったメキシコ麻薬組織やヒルビリーギャングを相手に生き残りをかけてもがくのだが、毎回人が殺されたり麻薬や銃が満載な話だけれど、基調にながれているのはファミリードラマ。ティーンエイジの子供2人が親に反抗したり、それを親として悩みながらむきあったり。主人公のマーティが、あれだけ周りがトチ狂っているのにある一線は越えないというディセンシーを保って生きてるのが今の世の中とても大事か。ちょうど先週、日本のドラマ「新聞記者」というのも見たが、なんだか勧善懲悪で描き方が紋切り型で、フランス在住の日本人知り合いが描写がやたら辛気臭いと酷評していたが、政権批判だったら映画ドント・ルックアップみたいにカラッとしたユーモアでメチャクチャに皮肉り倒すのがスカッとするんだがなあ。リアルな政治ネタをコメディやサスペンス仕立てのエンタテイメントに昇華できないのは日本の限界か。残念。今後に期待。

あ、オザークを話題にしたのは、このドラマでは、準主人公的な重要な役割の登場人物が死ぬときはあっさりと殺されること、それを書きたかった。日本のドラマだと、えてして、大物悪役は最後は見栄をはりながらのたうちまわってこれかこれかというまで主人公を危機にさらして最期は憎たらしく死ぬ。オザークは前シーズンでは超悪役の麻薬組織の米国人女性弁護士が最後の3分くらいであっさりと頭を撃ち抜かれて死ぬ。今シーズンでもややネタバレになるが、とても大事な悪役のおばはんとその愛人でこれも物語展開ではそれなりに重要な役だった人物が、あっさりと撃たれて死ぬ。本人も殺されるということがわからないくらい急に頭を撃ち抜かれて即死。

案外、米国の死生観って、死の瞬間がドラマチックなものではなくて、大自然の天変地異や事故や銃乱射事件に巻き込まれたり、死ぬときはころっとあっけなく死ぬというようなものもあるのかなとおもった次第。まあ、ドラマの表現方法だとは思うが、あっけない死というのが、案外、現実の人生でもそんなもんかなという気もしている。拙筆で未だ推敲中のメキシコを舞台にした小説創作でも、人はあっけなく死ぬ、そのタイミングや死自体に意味はないということを入れたりしたが、あまり死生観がどうのと語ってもしょうがないかなと、こんな題のPostを書きながら思う。矛盾。■


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