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ゴールデンレトリバーも、いいですよね


 最近やけに出てくる犬の話は、どこの誰の影響かは分からないけれど、なにか自分意外の存在が彼女の中にいるということだけは分かった。それくらい生粋の猫派である彼女とは、お気に入りの作家のサイン会で、前後に並んだことで出会った。

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「これって、順番回って来ますかね?」
 予約不要のサイン会は、インスタや公式LINEで割とちゃんと宣伝されていたおかげか、14時に着いた時にはかなりの列ができていた。本屋の入り口に、終了予定15時半と書かれた看板が置かれているが、サイン会なんて初めてで、いったいどれくらいのペースで進んでいくものなのか、自分の番が来るのか不安になりながら、とりあえず並んで様子を見ることにした。しばらくすると、後ろに大学生くらいのカップルが並んだ。2人も同じようにソワソワしていることに少し安心したところで、前にいた彼女がクルッと振り向いた。
「どう、ですかね、、どれくらいで進むんだろ」
 初対面、しかも後ろにどんな人間が立っているか分からない状況で、彼女は教室で後ろの席にプリントを回すくらいの勢いで、こっちを見た。この作家の、しかもサイン会に来るほどのファンに、こんな、MBTIだったら最初にEが付きそうな子がいることに驚いた。
「順番回ってこなかったら、お互いの本にそれぞれサインしません?記念に」
 並びながらポツポツと会話をしたが、最初から最後まで彼女のペースだった。それが心地良かったこともあり、いよいよ時間が怪しくなってきて彼女からそう提案された時には、もうその作家よりも彼女のサインが欲しいとまで思っていた。

「漢字ってどれですか?」
 無事に、サイン会の順番は回って来なかった。相手へ向けた自分のサインを書いて、好きな本とかバンドとかの話をしながら駅へ向かって、自然と解散した。その日得た彼女の情報は、その名前と、サインと、やけに趣味の合う趣味のことだけだった。個人情報的な肝心なところはほとんど分からないけれど、もう会うこともない気がしたし、会わなくていい気もした。

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 思い返すと変だけれど、なんかいい出会いだったな、くらいで、割とすぐに彼女のことは忘れていた。それでも2ヶ月くらい経った頃、仕事でたまたま寄った駅で、僕らはあっけなく再会した。運命ってこうゆうことかも、なんて柄にもなく何度も考えたし、人には平等にツキが回ってくるもんだと感心もした。
「お仕事、この辺なんですか?」
 初めてと言っていいほど来慣れていない駅で、ふらっと寄った居酒屋だった。サラリーマンばかりだが、一人で来ている客がほとんどみたいで、居心地が良さそうだった。生中をメニューを見ずに頼み、運ばれてくるまでにざっと食事メニューを確認する。好きなものは決まっている方なので、3つほど心に留めてアルコールを待った。ここで来る言葉は、お待たせいたしました系のものしかないはずなのに、聞いたことのある声と、身に覚えのある距離の詰め方をする話しぶりに、前回の彼女と同じ速度で振り向いていたと思う。

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 当時の彼女は22歳で、大学を卒業する年だった。就職先が決まって、バイトに明け暮れていた。今では3つしか違わないと思える年の差も、当時、学生と社会人とでは3つ以上の差があるように思えて、それが、彼女から見た僕の印象を3割り増しにしているであろうことも分かっていた。
 付き合って4年。そろそろ将来のことも考えようというときに、彼女がメンタルを崩した。職場の誰にも気づかれなかったと言っていたが、正直僕も気づいていなかった。それは彼女が上手なのか、良いのか悪いのかも分からず複雑だった。

「こうゆうのって、なってみないと分からないことももちろんあるけど、ならなくても分かってくれるような人も一定数は居て、分かろうとしても分からないんだろうなって人も全然居るんです」
 それが誰と誰のことなのか、それすら分からない時点で自分が後者なのだろうと思った。それでもマイペースに日々を過ごしながら、進んだり下がったりしながら泣いたり笑ったりする彼女は、僕が知っている中でいちばん、猫みたいな人だった。

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「将来猫は必須ですよ」
 突然未来の話をしたり、過去を振り返ったりして、持論を展開する彼女は、最終的には大体猫の話をしていた。自分が猫アレルギーじゃないことに、親には心底感謝した。メンタルが回復した彼女は、転職をして、あまり感情の起伏がなくなった。プラスもマイナスも減って、感情が薄くなった気がした。自分を守るためにそうしているのかもしれない。それで元気になるなら、それで良かった。10回に1回くらいは、猫じゃなくて犬になったりするけれど、それも気にしないようにした。

 歳を重ねるほど変化が怖くなるのはお互い様で、彼女がこの関係を壊すつもりもないことはよく分かる。犬も猫も、一緒に飼っている人もいる。彼女が猫と寝たり、犬と遊んだりするのを、1番近くで見ていようと、そんなようなことを思ったところで、目が覚めた。


「ねえ、結婚式の料理、どっちが良いかな」
 ダイニングテーブルでタブレットと睨み合っていた彼女が、あの時と同じ勢いで、こっちを見た。

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