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GIVEに関する、現時点での考察

ギブアンドテイクがずっと分からなかった。そんな私の現時点までの道のりである。

すっからかんに鎧をまとった存在

はじめて『嫌われる勇気』を読んだのは、2019年の初頭だった。

その頃の私は、他人の意見や目ばかり気にして、目の前の幸せに目をつぶりつつ、子育てのおかげで(母親というアイデンティティのおかげで)かろうじてそこに立っているような状態だった。

『嫌われる勇気』を読んで雷にうたれた私は、他人の人生ではなく、自分の人生を歩こうと決めた。
それまでは本当に自分がすっからかんの存在で、中身がからっぽで自分の意見などないのに、いや、ないからこそ固い鎧で覆って見られないように必死だったのだ。

だから、自分の人生を生きようとしたとき、何事も自分で決めることを決意したとき、
あまりの違和感に立ち竦んでしまったくらいだった。

それでも、人生を変えようと諦めずに自問自答し、さまざまなものを拒絶せずにまずは見るだけ見てみようと貪欲に取り込んでいった。
ようやく、自分についていろいろわかってきたし、自分で決めるという感覚も分かっていった。

変化のなかで、まず起こったことは、周りの意見をシャットアウトすることだった。
まだまだ他人の意見をきくと、振り回されそうだったから。それほど自分を保つのが困難だったのだ。

さらに子育てのかたわら在宅ワークをはじめて、時間が足りなずぎることを知った。

そうなると起こることは、リアルの人間関係が無用のものに思えたり、以前は楽しかったママ友とのおしゃべりが不要ではないか?と思ってしまうことだ。余暇と仕事の区別がなくなり、子育て以外はすべて仕事をしていたくなった。

私の限りある時間を奪わないで・・・
そう思っていた。

アダムグラント『GIVE AND TAKE』を読む


そんな頃(2020年春)アダムグラントの『GIVE AND TAKE「与える人」こそ成功する時代』を読んだ。


世の中にはトップギバー(他者貢献のギバー)とマッチャー(ギブとテイクのバランスをとる人)とテイカー(奪う人)とボトムギバー(自己犠牲のギバー)があることを知った。

わたしは成功したいと思った。
だからトップギバーになりたい。
だけど、どうすればなれるのか、まったく分からなかった。

昔のからっぽだった頃の自分は、他人に嫌われることを極端に恐れ、自己犠牲のギバーだった。だから、もう、そんなことはするまい、と思った。

自己犠牲をしないためには、奪われないようにしないといけない。
奪われないように奪われないようにと考えるあまり、なにかしら自分にメリットがないと、やる意味はない。そんな考えになってしまっていた。

マッチャーだった。

いや、むしろテイカーだったのかもしれない。

また(本当の定義を誤解しているかもしれないけれど)自己責任、個人主義という新自由主義的な感覚が入ってきたことも影響していると思われる。
”自分で得たものは、自分のものだ”という感覚。

これは、すべての生き物は関係性のなかで生かされていると気づいたとき、脆くも崩れ去ったが、気づくまでにしばらく時間を要した。

Webライターラボに入会

『GIVE AND TAKE』を読み、はじめてのnoteにまとめた後、
Webライターをはじめたり、ブログをはじめたり、娘の不登校でかけずり回ったり・・・
ギブアンドテイクについてはしばらく忘れていた。

そして、2020年12月、Webライターラボに入会。
オーナーの中村昌弘さんは「ギブが大事!」と口酸っぱく言っていた。インフルエンサーも「ギブ」という言葉をよく使っていた時期でもあった。

Webライターラボはギバーが多いらしかった。
たしかにあたたかくて気持ちのよい人たちがたくさんいる。

すると私の脳裏に、またアダムグラントがよみがえってきた。
私は、ひょっとしたら自分もギバーなんじゃないかと思い込んで、ラボのみんながするようにしていた。

だけど、まだギブがよくわからない。
他者貢献のギブと自己犠牲のギブの違いが分からない。

だけど、うまく言語化できない。しっくりこない。
伊藤亜紗ほか著『「利他」とはなにか』という本を読んだけれど、まだ分からない。
利他的になろうとはするけれど、なりたくはない感じ。得体の知れない、取り込まれてしまいそうな恐怖があった。

ギバーだと周りから思われたくてするギブは、他者貢献のギブではないのでは?
(自己欺瞞のギバー?)
その呪縛から逃れられなかった。

そう。自己犠牲のギバーからは抜け出したものの、そこから先に進めなくなっていたのだ。
なにか、突破できない壁があったし、
まだ、何かを差し出す手が震えていた。
(これは私のものなのに・・と思っていたのかもしれない。)

まだ何かをギブするとは、自分の肉片をささげる感覚に近かったのかもしれない。
なにかを削られている感覚に。

まだまだ私は、視野が狭すぎた。

鳥井弘文さんの放送から、するするとほどけていく紐

私の毎日の習慣はvoicyでの耳学習。
リスペクトしているパーソナリティのひとりに、鳥井弘文さんがいる。
そのなかでの「どのようなメリットも一番最初に利得を得ようとする人が一番取り分が少なくなる」という放送をきいて、感銘をうけ、メモる。

そして数日後・・・とある考えが頭をよぎった。

そうか、自分で種をまき、果実をその場で収穫しようとするのがマッチャー。
テイカーは他人の畑の収穫物を奪う人。

そして、ギバーは収穫に執着しない人。

なんなら収穫しなくても気にしないし、与えた相手に返してとも思っていない。
さらにおまけまでつけちゃったりする。

自分の身を削ってるわけじゃないし、あげたくてあげてる。
自ら決めて与えている。

ということは、自己犠牲のギバーって、ギバーではないのでは?
恐怖にまけて、本当は差し出したくないのに、差し出してしまっている?
それとも、ただそこに立っていて、テイカーたちに身包み剥がされているだけかも。
「取られ屋」「奪われ屋」なのかも。
いや、むしろこのタイプの人は、テイカーがいなければ楽しくいきてゆけるのかもしれない。


ここで、もうひとつの疑問。
周りにギバーだと思われたくて、がんばってギブしている人は?
勝手に自己犠牲のギバーになってるのでは?
それでは「与えたい屋」?

でも、他者貢献のギバーになりたくて、「与えたい屋」になり、それが修行になるのなら、いつか他者貢献のギバーになれるのなら、一時的に与える練習をするのもいいのかもしれない、とも思うのである。

もしかすると、大事なのは環境であって、テイカーのいない環境でギバーの訓練をすれば、周りに搾取されることもないのかも。

与えているうちに、自分のなかでここまでは与えてもいいラインができて、大事なものも分かってきて、より気持ちよくギブができるようになるのかもしれない。

だから、ギバー修行中の人が、自分を偽っている感覚になる必要はなくて、
あの人はすごいのに、自分は与えられていないって落ち込む必要もなくて。自分の与えられる範囲で与えたらいい。

そもそも、常に奪うこと、手に入れること、見返りを手にすること、そればかりにフォーカスするのがテイカーだとしたら、与えることにフォーカスしているのがギバーなのだと考えるといいのではないだろうか。


禅から知る循環の感覚

桝野俊明『人生の流れが美しくなる 禅、「お金」の作法』のなかで、 
お賽銭は喜捨、つまり喜んで捨てること、自分の邪な心とともに投げ捨てることと書いてあった。
さらにお金は巡らせてこそ意味があると知った。

自分がギブしたことは、回り回っていき、もしかしたらかたちを変えて戻ってくるかもしれない。

または、それこそ鳥居さんが言ってたように、一生収穫しなくてもいい。つまり自分の生きているうちに返ってこないかもしれないけど、それはそれでいい。
僕らはなにかしら影響しあって生きているのだから。

恩送りとかギブの循環、円環的なもの。もっと視野を広げて見ようよ。

そんな風に思えるようになってきた。

最近の変化のひとつに、(はずかしながら)募金ができるようになったことがある。
「喜捨」という言葉を知ったこと、NFTを通して応援や寄付の文化に馴染んできたことで抵抗がなくなったのもあるだろう。

また、ギブって与えることだけではないよね。とも思った。
それは、相手を理解するには受け取ることも必要だから。
相手の話を聴くとか、一見受けるかたちのギブもある(自分の時間や注意力をギブしているともいえるが)。

与えるが=押し付けになっては本末転倒だよな。とも。
あれこれ思うのである。

ギブの世界はかなり奥深い



こうして少し思考が前に進んだことがうれしく、書き記してみたけれど、まだまだしっかり言葉にできないのが惜しい気もする。
また数ヶ月後、数年後になったらわかることがあるだろうな。


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