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『化け物の進化』

今回は寺田寅彦の『化け物の進化』を紹介したいと思い、記事を書くことにしました。

私は高校の実力テストの設問としてこの随筆に出会いました。
(昔、京都大学の入試で出題されたことがあるそうです。)
そのときは問題を解くのに必死でそれほど深く考える時間はありませんでしたが、その後科学の営みについて考える度に不思議とこの文章を思い出しました。

寺田寅彦は「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉で有名な物理学者であり、随筆家でもありました。
その彼がしばしば相対するものとされる科学と宗教は実際には同根のものであると説いたのがこの随筆です。

昔の人は不可解な自然現象を例えば雷神のような化け物の所業として説明しました。
一方現代の我々はそれを分子原子電子へと帰着して説明するわけですが、寺田はこれらの説明は「ともに人間の創作であり芸術である」と述べています。

彼の言う通り、普通の意味で見たことがないという点では雷神も分子原子電子も同じなのです。
そしてさらに重要なのは「その心的内容においては永久に同一であるべきだ」という点だと思います。

現代の我々は自然現象を分子原子電子で説明することにより分かった気になっていますが、これは傲慢です。
実際古来からやっていることは本質的に変わっていないし、雷神が分子原子電子に進化したからといってそれに対する畏敬の念が消えるべきではありません。

「宇宙は永久に怪異に満ちている」のです。
「その怪異に戦慄する心持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまう」というのは本当にその通りだと思います。
私たちは自然の不思議さに取り憑かれて科学者となったのです。

G. H. Hardyという数学者もその著書``A Mathematician's apology''の中で数学は至高の芸術であると述べています。
こうした科学の芸術としての側面はもっと知られてもよいのにと常々思っているところです。

私の専門はLanglands予想に関するものですが、Robbert Dijkgraafという数学者が次のように述べているのを思い出しました。

Langlands’s program is now the Indian parable of the blind men and the elephant. One man feels the trunk, a second a tusk, the others a piece of leg, ear, skin, or tail. Each has his own idea about what this object is—a snake, a tree, a wall, a piece of rope? Langlands imagined an elephant more than fifty years ago and mathematicians, even physicists, have been trying to combine the pieces and expand his picture of it ever since.

``A Mathematical Rosetta Stone''

Langlands予想は元々数論や表現論における問題でしたが、現在は代数幾何学や数理物理学にもまたがる広大な予想網へと発展しています。
各々の数学者はこの予想網のうち自分の専門に関する部分について自分なりの考えを持っていますが、依然としてその全体像は明らかになっていません。

Dijkgraafはこの状況をインドの象と盲人の寓話のようだと言っているわけです。
各々が象の様々な部分に触れ、それらを組み合わせることでその全体「象」に想像を膨らませているのです。

そしてDijkgraafのこの比喩は数学者が深い畏敬の念をもってLanglands予想に取り組んでいることもうまく言い表していると思います。

私もこの象のどこかに触れているのだろうか


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