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初めて風の歌を聴きました - 村上春樹「風の歌を聴け」(1979) 感想文 -
タイトル通りの読書感想文です。
おぉ... ん〜... いや、なんていうか...
結論からいうと面白かった。文庫にして155ページというコンパクトさもあり、また場面や回想への転換が目眩く用意され飽きさせず、没入しながらスラスラ読むことができた。また本当に前から何千人もの人が口を揃えて言うことだが、情景描写の1文1文の全てが本当に、非常に美しい...。
ただ「読みやすかったですか?」と聞かれるとまあ...というのが素人目に読了した私の感想である。
何故か?登場人物、特に「僕」のセリフ回し、いわゆる「村上節」がマジでキショい。ファン、と言うよりハルキストと呼ばれる方々には申し訳ないが、読んでいて非常にストレスフルな程の村上節をたった1冊で充分に堪能した。21歳のガキがタメの男友達にベートーベンのレコードなんか送るなーー!!!キショいんじゃー!!!!!
しかしこの怒り(なのか?)と戸惑いは私に「村上春樹」という抽象的概念への耐性が全く無いが故なのだろうか?
恥ずかしながら私はこれまで村上春樹作品を全く読んだ事がなかった。しかし私はタチが悪く、全く読んだ事が無いのにも関わらずあの特徴的な文体のみを引用し酒の席などで死ぬくらい村上春樹をイジった。「『やれやれ...』 僕はそう呟くと思い切り射精した」とか言ってめちゃめちゃバカにしていた。イジった歴については色々と枚挙にいとまがない。
しかし今回初めて作品を読んでみて確信した。私が読まずとも察知していた"あの"雰囲気、「村上春樹は気だるそうにセックスしてる人」というイメージは完全に本の中に再現されていた。再現されていた、っていうか本人の書いたものなんだけど...。
主人公である「僕」は東京の大学に通う非常に無気力な青年である。帰省で神戸の山の上、ハイソな住宅地に帰省しているという状況にある。とにかく私はこの「僕」と友達になれそうにない。私個人の感想だが、彼の会話の鼻への付き方がハンパないのだ。
本を読んでいる「僕」。それを覗き込む友達の「鼠」。
『「何故本なんか読む?」「何故ビールなんて飲む?」 僕は酢漬けの鯵と野菜サラダを一口ずつ交互に食べながら、鼠の方も見ずにそう訊き返した。』
ハァ〜〜なんだコイツ!! なんで本なんか読んでんのかって聞いてんだから喰う手止めてちゃんと解答しろよ!!!
昨日の記憶が無い女の子と会話するシーン。
『「ねえ、昨日の夜のことだけど、一体どんな話をしたの?」 車を下りる時になって、彼女は突然そう訊ねた。「いろいろ、さ。」「ひとつだけでいいわ。教えて。」「ケネディーの話。」「ケネディー?」「ジョン・F・ケネディー。」彼女は頭を振って溜息をついた。』
そら溜息つかれるわ。この「僕」が醸し出す雰囲気はあまりに芳しく、初心者の私にはチトキツいものがあった...。
まあ悪意のある抜粋でまた文体をイジってしまったが、この"雰囲気"というモノが村上作品の肝なのだ。本作は1章の文章を英訳しまた日本語に再翻訳したところから文体が定まっていったらしい。そこから始まった文体はやはりスタイリッシュな翻訳小説風、情景と心理描写が甘く掠れたアメリカンニューシネマ的なものへと到達、完成されている。真夏の木漏れ日や夕陽に照らされた港などの美しい情景を、さらに包む美しく気だるい雰囲気、それを表現するあの特有の文体が確かに「村上春樹」という唯一無二のブランドなのかもしれない。
私の推しメンである遠藤周作はこれを「憎いほど計算された小説」と評したらしい。が、やっぱりあの人は優しい。瀧井孝の「外国の翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作だが……。(中略)」という評に私も同意する。しかし瀧井孝はその後ちゃんと「しかし、異色のある作家のようで、わたしは長い目で見たいと思った」とフォローしている。なるほどね。とは言いながらも当時はだいぶ衝撃的な文体だったであろうため瀧井を始め誰もが困惑、ドン引きしたことであろう。。。
私は村上春樹の文体を、本作の「新進気鋭のバタ臭い文体」しか読んでいないため、新進気鋭でなくなった以後のものはまだ知らない。が、まあ恐らく最近の作風にも大きな変化はないであろう。多分。
色々しょーもないことを書いたが私はこの本好きである。美しいクライマックスが結構お気に入り。1973年のピンボールも早く読みたいな〜。なんて思う次第である。
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