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狩生健志、『雨/水』を語る。

 東京を拠点に活動する“俺はこんなもんじゃない”のリーダー 狩生健志の3年ぶりとなる2024年作『雨/水』がリリースされた。リリースに際して本人から紹介文となるような作品のインフォーメーションを作成して欲しいとの依頼を受けたので、文章を書くために幾つかの質問を投げかけてみると、その回答が異常に面白い。いや、面白いだけではなく、普遍性や公共性も帯びているように思え、紹介文とは関係なく個人的な関心の赴くままに幾つもの質問を重ねていくと、次から次へと興味深い話を聞くことが出来た。すると、自分の中に「この話を埋もれさせるのは勿体ない。1つの記事としてまとめた方が良いのでは?」、と思いも寄らぬ使命感のようなモノが芽生えてきて、下記の通りインタビュー記事としてまとめさせてもらった。元々、インタビューをするつもりも予定もなく、話自体もアチコチに飛んでいったモノを再構成/構築したものなので、もしかしたら読みづらい箇所/展開も多々あるかもしれないが、それでも「狩生さんの言葉に触れることで何かを感じ取って貰えるのでは?」と、淡いようでどこか確信めいた期待を抱いている。そして、もし何かを感じて貰えたなら、是非『雨/水』を繰り返し聴いてみて欲しい。前述の紹介文には、 “この作品はオルタナティブでレフトフィールドな感性で綴られるミニマムなポップソング集です。そして同時に、多面的な錯綜を抱え込んだ現代社会に呼応した1つの音楽のあり方として、確かなリアリティを感じさせてくれる希有な作品でもあります。” と書いた。インタビュー記事をまとめ終えた今、その思いをより一層強くしている。(清水久靖)

Kenji Kariu (狩生健志) / Rain/Water (雨/水) 商品ページへ


■素晴らしい作品ですね。フランスのレーベル Bruit direct disquesから2枚目の作品となるわけですが、どういったきっかけでリリースとなったのでしょうか?

狩生健志 (以下KK): Bruit Direct Disquesは真美鳥 Ulithi Empress Yonaguni San(以下・真美鳥)のアナログをリリースしていて、真美鳥が主催した高円寺スタジオDOMでのイベントに、来日中だったレーベル主のGuy Mercier さんがいらっしゃった事がありました。
そのイベントに自分もソロで出演していた縁でGuyさんとの交流が始まり、4年後に前作『世界』のリリースへと至りました。

■狩生さんの音楽からは心地良さと、それだけに引きずられない醒めた感覚をいつも感じています。今作ではそのコントラストがより鮮明になったように思いました。つまり、快楽的な音楽なんですけど、快楽性に没入しきれない醒めた感覚がいつも付きまとうような。

KK:まさにそのようになっていたら良いなと思っていたので、嬉しいご指摘です。
サウンド自体には快楽性というか、自分の思うところの心地良さを出来る限り追求できればと思っていますが、その心地良さに相対するような何かが同時に込められるべきだとも思っています。最終的に、その両者の間での緊張感みたいなものを曲中に漲らせる事を目指して作業しているというか。
また恐らく、その相対する「何か」は、サウンドが心地良いことによって、はじめて成立するものであるとも思っています。なので、その両者は相対する要素であると同時に、相互に依存しているものであるとも思います。

■よく分かります。“心地良さに酔いたいけど酔いたくないけど酔いたいけど、、、”といった形で延々と続いているような感じに近いですよね。
考えるだけで心が沈んでしまうような社会情勢を前に「音楽を聴いている時くらいは忘れたいな」って思いながら、「でも本当に忘れて良いの?」みたいに葛藤する感じと、“酔いたいけど酔いたくないけど酔いたい”っていう感じがカチっとリンクしていくような心地もしています。歌詞にも社会のムードが確実に滲んでいますよね。

KK:“酔いたいけど酔いたくない”というのは自分自身の心境でもあります。A-3の「舟」という曲の歌詞のラストで「世界を忘れる 私は忘れた」とありますが、この歌詞の主人公は最終的に心地良さにとどまり、外で起きていることを忘れようとする、という結末になりました。また、その事を後から振り返っているようなニュアンスもあります。これは恐らく自分自身のことで、この世の中の圧倒的な不公正や差別、悪としか名付けようのないような野蛮な行いを目にしても、音楽の快楽性によってそのことを一時的にでも忘れてしまうことができる。それは救いではあるし、基本的には良い事と捉えていたが、最近は段々その事について自信が持てなくなってきた。これは、自分にとっては今の社会に直接繋がっている問題です。


■制作にあたって何かテーマはありましたか?

KK:テーマとしては、人力でも打ち込みでもない、その中間くらいの曖昧な人間/機械らしい感触の追求というのがありました。『世界』は、どちらかと言えばエレクトロニックな要素がベースのアルバムでしたが、『雨 / 水』は人間と機械の中間であって、そのどちらでもないような曖昧な領域にサウンドを着地させたい、と思っていました。

■機械と人間というテーマは、これまで多くのSF小説や映画、アニメ、漫画などで描かれてきたと思います。何か好きなSF作品はありますか?

KK:自分にとって、SFはトライしては挫折する分野というか、決して嫌いではなく、むしろ好きではあるが苦手、という分野です。全く読んでこなかったわけでもないのですが、深く理解できたと感じるのは藤子・F・不二雄のSF短編集くらいで、より本格的な小説等になってくると、どうしても読まされている感というか、リファレンスとして押さえるような感覚で読んでしまっている自分がいて、本格的には懐に入っていけない感じがします。

■とはいえ、SF的というと言い過ぎな気もしますが、どこかノスタルジックな近未来のように感じられる曲もあります。そして幻想的であり、寓話的でもあるような。

KK:本や映画に限らなければ、SF的な要素を含んだ諸文化の中で最も強く影響されたのはVaporwaveです。"MACINTOSH PLUS - リサフランク420 / 現代のコンピュー "が、真っ先に名前が挙がる代表的な作品だと思いますが、このビデオの醸し出す危うさというか、霧のような悪意というか、そういった雰囲気は他では味わえないものであり、歴史的な必然性というか、2010年代という時代に強く結びつくものと思います。時代に深層心理というものがあるとしたら、そこを切り取ってわかりやすく抉り出すことに成功した作品なのではないでしょうか。
直接的なサウンド面で6曲目の「とおりすぎる」は、この曲を少し参照していますし、それ以外の面においても美学的に大いに影響を受けていますが、その影響自体はどこか危険なものであるとも思っています。


■影響を受けることの危険さをもう少し詳しく説明できますか?

KK:これは現時点での自分なりの解釈で、数ヶ月後には違った考えを持っているかもしれませんが、私がこのビデオから感じ取るのは甘い絶望というんでしょうか、諦める事の甘美さというか、敢えて言葉にするならば、そのような類の感情です。そしてこの「絶望」は、わかりやすい例を挙げるとすれば、例えばレディオヘッドが歌い上げるような絶望、とはフェーズが異なるものというか、それでいて、現代の日本のような文化的風土で暮らしている人々の一定数にとってはよりリアリティのある、ふんわりとした絶望、ふんわりとした哀しさなんじゃないかなと思います。それは人間と機械との間で共有可能な哀しさなのかもしれません。
重要だと思うのは、その事に対しての批評性よりも、その感覚自体が持つ快楽性が僅かに上回るように、このビデオがデザインされている(ように私には見える)ことです。まさにそのバランス感にこそ、この作者の感覚の鋭利さというか、破壊性、表面的な意匠の上では類似している他の作品との大きな隔たりがあるように思えます。それは美学的なブレイクスルーと言って良いと思いますが、でもこの先に何があるんだろう?という恐ろしさもある。と、こんな印象を今のところこのビデオに対して持っています。

■なるほど。よく分かる気がします。近年ではAIでそういったSF的なテーマがよりリアルになった印象もありますよね。

KK:そうですね。最近はAI兵器について時々考えます。AIを用いた近年の戦闘における倫理、みたいな議論は時々なされると思います。要は、人間対人間の殺し合いと比較して、AI対人間の殺し合いはどのように倫理的に間違っているのか、というような話です。
この話は、AIが作成した音楽を人間が聴く、という話と少しは似ているのでしょうか、それとも全く異なる文脈の話なのでしょうか?

ガザで虐殺を行っているイスラエル軍が用いるAI標的システムの名は「GOSPEL」というそうです。これは音楽ジャンルの「ゴスペル」であり「福音」という意味です。こういったネーミングも含め、今行われているのはテクノロジーを使った、この先ずっと続く人間性に対する呪詛の儀式なんじゃないかと思ったりします。この状況自体がディストピア小説みたいだなと思いますが、しかしこれは現在進行形で起こっている、2024年の最も先端に位置する現実です。

■そもそも人間らしさ、機械らしさというテーマ設定はどこから来ているのでしょうか?

KK:現代のほとんどの音楽制作にはコンピューターが用いられます。打ち込みを駆使すれば、いかにも人間らしい演奏をシミュレートする事もできます。人間を模したフィールを機械によって再現することで、実際には人間が演奏する機会を奪っているわけですが、その点によりクローズアップして考えるなら、奪われているのは演奏の機会だけではなく、その時、プレイヤーが持ったであろう感情です。
長年DAWで制作していますが、そこにちょっとした罪の意識を感じます。
音楽を作るためにデスクに座った時点で、機械と人間との間のちょっとした葛藤が自分の中に発生するわけです。
なので、単に「人間のような」演奏を再現するためだけにはコンピューターを使いたくない。(そういう使い方もこれまで散々してきましたが)
最低限、機械によって初めて可能な、美学的な新しさを感じていたいというか、少なくとも自分の作品に於いてはそうできたら、と思っています。
その時、一つの方向性としては全面的に「機械ならでは」という、エレクトロニックな方向というものがありますが、自分の今回の好みとしては、表面的にはエレクトロニックではない質感で、それをやれないかなと思い、その結果として今回の手法があるように思っています。そのコンセプトを完璧に達成できたかといえば、恐らくそうでもありませんが、少なくとも自分にとっては挑戦すべき課題でした。

■“機械によって初めて可能な、美学的な新しさ“を表現するに当たって、音作りの面で何か意識や工夫したことはありますか?

KK:例えばドラムの音は、既存のサンプルを極力使わず、公民館の使い古されたドラムを自分で叩いてパーツ毎にサンプリングしたものが中心です。
生々しい、非音楽的な音が欲しかったので、マイクは音楽用のものではなく、敢えてインタビューなどで使うような音声収音用のマイクを使いました。その音を後からPCで加工しまくってリズムにしています。
また、前作では敢えてあまり使わなかったギターやベースも沢山使いました。
具象的な手段を経て抽象に至りたかったので、なるべく人間(自分)の出した音を素材にしながら、前作とはまた違ったニュアンスの抽象を目指した、という感じです。そうやって人間由来の成分が増えていくにつれて、なぜか逆に機械的で客観的な存在に、曲が変化していくような感覚がありました。

長期間のミックスを重ねるうちに、はじめ、くっきりしていた輪郭が、輪郭線を重ねるように段々曖昧に、淡くなっていき、そして、その淡さが重量感を持って徐々に定着していくような感覚がありました。
ミックスの期間の自分の内外の変化を封じこめて形にしているような、そういった感覚は毎日キャンバスに絵の具を塗って、それがゆっくりと完成に近づいていく、みたいな感覚に近かったような気がします。それは、膨大な数の選択を封じこめているような感覚でした。

■何か参考にした作品はあるのでしょうか?

KK:サウンド的にそんなに近くないかもしれませんが、“打ち込みの手法で捉え直した人間の演奏”、というコンセプトはトロ・イ・モアの『MAHAL』と『Soul Trash』という2枚のアルバムにヒントを得ていると思います。『Soul Trash』は、そのコンセプトを音楽的なエッジを獲得するための一手法としてやっている感じですが、『MAHAL』では手法という段階は越え、より自然な形でサウンドに深く定着したような、はっきりとした美学的な更新を感じました。
他、制作初期になぜかよく聞いていたのは、サザンオールスターズの初期のアルバムのまとまりのないガチャガチャした感じや、原由子の『MOTHER』というアルバムの90年代の打ち込みの感じ、制作の仕上げ期にはKing Kruleが昨年出した『Space Heavy』の質感が好きでよく聞いていました。


■話を聞いていると、かなり無理矢理ですがトロ・イ・モアの『MAHAL』と『soul trash』と原由子の『mother』を掛け合わせると『雨 / 水』になると言えなくもないような気がしてきました笑。

それでも、狩生さんの音楽の場合は、ポップミュージックの多面性を保ちながら、様々なジャンルを組み合わせて曲のスケールを拡張させるのではなく、どちらかというとミニマムな形へと着地させているかと思います。そのバランス感覚に物凄く強い作家性を感じるのですが、曲のスケール感についてこだわりというか考えはありますか?

KK:これは大いにあります。最近はやや違う傾向も感じ始めているものの、90年代、2000年代の所謂J-POPのイントロ、Aメロ、Bメロ、サビ、ブリッジ~みたいな、幕の内弁当みたいなサービス過剰な構成がとにかく好きではなく、比較して50年代の日本の音楽などを聴いていると、もっと構成がシンプルで美しく、なぜ日本の音楽はこのような間違った進化を遂げてしまったのだろうと苦々しく思っていました。50年代のスタンダードソングは大抵A,Bだけ、もしくはそれにブリッジがあるだけ、という感じで、そういうシンプルな美しさを持った日本語の曲が現代にも、もっとあって然るべきだと思っていますが、現状ほとんどありません。歌謡曲などでも昔の曲はもっと構成がシンプルで(『また逢う日まで』とか)、そのシンプルさの中でこそ発揮される複雑さがあるように思います。ああいった系譜がなぜ誰にも引き継がれずに、代わりに幕の内弁当が量産されるようになったのか、全く納得いかないという殆ど怒りにも似た感情があり、それが反映されているのだと思います。


■確かに構成はポップス的ですよね。『世界』の頃にコール・ポーターが好きだという話も聞いた気がします。ところで、シンプルな構成というのは“俺はこんなもんじゃない”の真逆の意識でしょうか?

KK:”俺はこんなもんじゃない”は、別々の曲を同時に演奏している、みたいな複雑な曲が多いです。なので、表面的には違うと思いますが、自分にとっては共通している部分もあります。それは「別々の事が同時に起きる」という感覚です。”俺はこんなもんじゃない”では、文字通り、音楽的な意味合いで同時に複数のイベントが起きているわけですが、ソロでは、もう少し内的なニュアンスに於いて、相反する要素が同時に起きては消えていく、ような感じと思っています。そして、そのような事が内的に起きるための容れ物として、シンプルな楽曲構成を選択している、と言えるかもしれません。

また、話が少し脱線しますが、バンドは、複数の人間のアンサンブルなので、自分の思惑だけで動いているわけではなく、参加しているメンバーそれぞれの音楽史や感覚が混合したものがサウンドになっていると思うので、出来上がっていくものを完全にコントロールするのは難しく、そもそもコントロールすべきものでもないと、特にソロでの制作を踏まえると、尚更そのように感じます。
昔はもう少しコントロールしたかったかもしれませんが、最近はバンドという容れ物は、そういう類のものでは無いと思っています。必ずしも悪い意味ではない”妥協”というものをスタイルとして追求・探求する場というか。ここ最近のバンドでの新曲はそういう心境を反映しているような気がします。


■自身の歌声についてはどうですか?凄く面白いシンガーだと思っていますが。

KK:歌については、まず一つには自分の歌声が全く”歌手の声”ではないという、その事が全ての前提にある感じがします。喩えがちょっと微妙ですが、日本の男性歌手の歌唱の標準って、TM Revolutionみたいな、ツヤやハリのある高音が出て、地声も太く、発声した瞬間から音程がハッキリしているような歌声だと思うのですが、自分はその全てにおいて、ほぼ真逆の声質のように思います。”歌手”ではない人間の歌唱というか。
個人的な分類によればデヴィッド・ボウイやルー・リード、デーモン・アルバーンなんかも”歌手”じゃない人間が歌っている歌のように聞こえます。
(ちなみに、極端なまでの歌の上手さと、”歌手”じゃない「声」が同居しているという奇跡的な例外としてカエターノ・ヴェローゾの名が挙げられると思っています)
 
なぜ日本の現代の音楽には”歌手”じゃない人間が歌っている歌が少ないのだろうと思うことがあります。なので、ユーミンのノンビブラート唱法からヒントを得たという山本精一さんの歌唱にはとても大きなヒントを得たというか、まさにそのような歌声が聴きたかったと初めて聴いた時に思ったし、大きく影響を受けていると思います。しかし物真似はしたくないので、自分なりの歌唱を模索しているところですが、まだそれは途中なようにも思います。
もっと様々な歌声が世の中にあって良い、そのうちの例の一つを示したいという意味では、割と社会的な動機のようにも思えます。

■狩生さんの音楽自体が音響体っぽく聞える時があるのですが、インスト部分よりも声のある部分の方が不思議と音響という言葉が浮かんできます。ポストロックとかが流行っている頃によくいわれた”声も楽器の1つ”みたいな話ではなく。なんというか、歌声が音響体を意識させるけど、そこに埋没しないシンガーとしての魅力も立っているというか。

KK:録音物に関しては、この歌声っぽくない歌声をどのように処理してやろうという、変わった音声素材を取り扱うような気持ちで声を取り扱っており、それが自分の声に対する時のある種の客観性の下地になっているとは思います。元が歌声っぽくないだけに、より音響体として自分の声を捉えている、という意識が強いのかもしれません。歌声以前の、ただの「声」を取り扱っている、というような意識が比較的強いです。

■なるほど。ただの「声」という表現には凄く納得させられます。節の付いた朗読のようにも聞えてくることもありますし。声が奇妙な存在感を持っている理由が分かった気がしました。
音楽における声の特別性を発揮しながらも控えめにも聞えてくる。つまり存在感は凄いんですけど、控えめでもある、、、みたいな。さっきの“酔いたいけど酔いたくない”じゃないですけど、やはりアンビバレントというか錯綜というか、そういった感覚を歌声からも常に感じています。

KK:アンビバレントという指摘についてですが、歌詞は言葉なので意味を持ちますが、同時にただの音としても認識していて、意識の上ではその両サイドを行ったり来たりしながら発声できたらと思っています。なるべく、意味にも音にも近づきすぎずに、その中間のどっちつかずの場所に着地できたらと思っています。英語がほぼわからない状態で英語の歌ばかり聴いてきたので、歌詞を意味ではなく、音として捉える傾向が強いのですが、そういう人間が母国語で歌った時、ちょうど良い距離感で意味からも音からも離れられるのではないかと思い、その実験として様々なバランスを試しながら歌っている、という側面があります。
ただ『世界』の頃からライブ等を重ねて、今は徐々に考え方も変わってきたかもしれません。恐らく以前に比べれば、「声」よりも「歌」寄りになってきている感じがしますが、それは何となくそうすべき感じがしたというか、そうする方がリスキーで冒険的なことのように自分には思えたからで、これは前作からの心境の変化なのかなと思っています。

■レーベルやフランスのリスナーは狩生さんの音楽をどう捉えている印象がありますか?

KK:日本人が日本語で歌っている楽曲を、日本語話者ではないリスナーがどう感じるのだろうか、自分でもわからないですが、しかし自分もリスナーとしては外国語の曲を聴く比率の方が高いので、案外似たような心持ちかもしれません。
歌詞には、ただ単なる「音」としてだけ伝わる要素があり、実はそのウェイトがだいぶ強いような、案外、歌詞に於ける「意味」というものは副次的な要素に過ぎないような気すらしています。逆にネイティブな言語だと、その意味に引っ張られて本質を見失う、というような事があるのかもしれません。時々、海外からいただく感想やレビューは、とても深みのあるものが多いです。

■話を色々と聞いていると、今の社会情勢がきっかけで意識が変わっていったということですよね。

KK:時期的には制作が終わったあとの話なので、直接アルバムには関係しないですが、たとえばイスラエルの兵士が虐殺と破壊が行われている只中のガザで臨時に作られたパーティー会場でとても楽しそうに音楽に合わせて踊っている動画などをSNSで目にした時、音楽やダンスは基本的に善なるものと考えていた自分のナイーブさに直面させられるというか、自分が信じてきたものがボロボロと崩れ落ちていくような感覚になります。
また、自分の内面を育ててくれたと言っても良いであろう英米のロックや、その他西洋の映画や文学、哲学なども、植民地主義をオブラートに包んだり、または直接的にそれに貢献するような道具として機能してしまっていたのだなと今更ながら感じてしまいます。
だからといって、それらを全て捨て、たとえばアジア古来の音律を学び、ナショナリズムに回帰したような方向性に思いっきり舵を切る、というようなことは自分には出来そうもありません。そういった事を感じていながら、これからも今までと似たような、西洋の伝統的な音楽体系をベースとした音楽を作り続けるのだという諦めのようなものがあり、それ自体を呪いのような形で音楽に込めて曲にすることが、今の自分にできることなのかなと考えています。
これらのことはやはりガザでの虐殺が起きてからはっきりと自覚したことですが、しかし、今まで見てみぬふりをしていただけで、本当はどこかで気づいていたような気がします。そういった気配のようなものがアルバムの歌詞やサウンドに反映されているのかなとは思います。

ところで、Bruit Direct Disquesは明確にパレスチナへのサポートの姿勢を打ち出し、サイト上やレコードのアートワーク等において表明しています。これをフランスで行う事は(少なくとも日本で行うよりはだいぶ)毅然とした決意のいることであると思います。こういった姿勢も含め、このレーベルに参加してGuyさんと一緒に作品をリリースできることを私は誇りに思っています。


■より社会的な方向へとシフトしているということだと思うのですが、ソングライティングのタイミングで意識的にそうしたのでしょうか?それとも結果的にそうなったのでしょうか?

KK:音楽全体としては意識せず、自然にそうなった、という感じなのですが、歌詞に於けるボキャブラリーの選択については、そうとも言えない部分、より意識的に選択を行った部分があります。今回は敢えて、他人から借りてきたような言葉というか、日本語の曲で良く使われるような言葉や言い回しを自分なりのチューニングで少し混ぜる、という事を試しましたが、これは前作ではほぼ無かった発想です。
元々自分は世の中から隔たった場所で、独りで自分の好きな音楽や音の質感をひたすら愛でていたい、というような気持ちが強い人間だと思います。突き詰めれば、自分さえ楽しければ、それで良いというか。
ですが、その態度でこの先も突き進んでいくと、恐らく社会にとって害となるし、そういう自己完結的なスタイルが何だか詰まらない物のように(幾つかの具体例にあたるような事例も目にして)思えてきたという事だと思います。

■混乱や混沌を抱えながら、根源的な何かが変わっていくような感じですね。そういう変化の様子が刻まれている作品なんだなぁと改めて思いました。

KK:若さが失われたからかもしれませんが、自身の芸術的なエゴのために、自分以外の何かが犠牲になるというようなストーリーにロマンを感じる事が、ほぼなくなりました。伝統ある寺が燃える画を書くために、寺に火をつけるような行為に、芸術的ロマンを感じなくなったというか。芸術はそんなに大したものではないと、ようやく理解できたのかもしれません。
当たり前ですが、人の生き死にの方が、音楽や芸術よりよっぽど大切です。今起こっている大虐殺や様々な価値観の崩壊に比べたら、自分のやっていることは無に等しいと思いますし、それこそが最低限のスタートで、それでもまだやる、という気持ちでしかやれないと思っています。また、その程度のものであるが故の美しさ、儚さがあるものだとも思っています。
そのような意味で、やはり若干の思想的な変化があり、それに沿って制作物をチューニングするという意味で、意識的に変化を加えた箇所があり、特にそれが歌詞に出ているのかなと、自分では思います。

■個人的には、多面的な錯綜を抱え込んだ現代社会に呼応した1つの音楽のあり方として、確かなリアリティを感じさせてくれる希有な作品だと思いました。延々と葛藤を続けることしかできないことへのリアリティというか。それは今の時代と対峙する時の1つの誠実な姿でもあるとも思います。

KK:ありがとうございます。そうですね。ただ、葛藤を続けることしかできない・・・とまでは悲観していないかもしれません。
例えばペットのハムスターがカゴの中の遊具で同じ場所をぐるぐるまわっていても、一億回まわれば遊具の方が壊れるでしょうし、そのガムシャラな回転の仕方がその周辺の磁場に何かしらの影響を及ぼし、すぐに目に見える変化でなくても、何かしらの変化は必ず起きるものと思っています。葛藤自体も一つのアクションというか、葛藤から始まる何かがあると思える程度には自分は楽観的であり、それだから呑気に音楽など作っていられるのかもしれません。

■最後にアルバムを聴く人に何かあれば。

KK:最近私は音楽を聴くのも作るのも本質的には余り変わらない行為なような感じがしています。音楽を聴くとき、我々はその音楽を心の中で再生産しているように感じています。その心象を新たな別のサウンドとしてアウトプットするのは、ただの技術的な問題であって、核心はそこではないというか。なので、大なり小なり程度に差はあっても、音楽は聴かれることで初めて、聴いた人の心の中で作られるもののように思え、自分もそのような意識で様々な音楽を聴いています。
だから、自分の音楽について以前はもっと漠然と、ただ沢山聴かれれば良いなという程度にしか考えていなかったですが、今はあまりそう思わず、(無意識にでも)必要としている人にきちんと届いてくれれば良いなと思っています。
このアルバムの曲達がそのような良い出会いにこの先恵まれれば、大変有り難い事だと思っています。

長い記事を最後まで読んでいただいてありがとうございました。
要点を衝いた質問のおかげで、現時点での自分の発言として残しておきたいことを、ここに記録することができました。
興味を持たれた方は是非アルバムを聴いてみてください。
また、感想などがあれば是非、直接メール等でお送りください。


狩生健志、プロフィール

1979年福岡生まれ。
バンド、俺はこんなもんじゃない(OWKMJ)で、1stアルバム『epitonic』(2003) 発表後、 5thアルバム『LAMINA』 (2019) まで、これまでに5枚のアルバムをリリース。ソロでは2009年に1st『KK』、2011年に2nd『KK2』をリリース後、2021年にLP『Sekai』、2024年『雨 / 水』をBruit Direct Disques(フランス)より発表。日本・フランスの遠距離バンドSaboten Radarでもギターを担当。
また、長編映画『ひかりのたび』(2017)『サンパギータ』(2024)など、多数の映画・映像音楽に関わり、近年は音楽スクールなどで作曲講師も務める。

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