【ホラー小説】複合機

 大田ハルカがこの会社に転職して3か月が経過した。ようやく慣れてきたと言ったところだった。
 10年近く務めた前の会社に特に不満があったわけではなかった。前の会社はそこそこ大きな規模で、堅実で今どき終身雇用をきっちり守っていた。給料も悪くなかったし、福利厚生もしっかりしていて、大きな失敗でもしない限り定年まで働ける環境だった。人間関係も、まあ良好だったと言える。同じ部署でたくさんの人間が働いているわけだから、人の好き嫌いはあるにはあったが、みんなそれなりに大人の対応をしていて、うまく距離を取り合っていた。
 そんな会社を辞めて、なぜこんな中小企業に転職したのだろう。転職して良くなったことと言えば、会社まで徒歩で通えるようになったのを除けば、おそらく何もない。ただ何となく、ひとつの会社しか知らずに一生を終えるのは、何か違うという気がしていた。
 転職した会社は、「文角堂」という法人向けの事務用品販売業で、従業員は全部で30人余り。その古めかしい名前が示す通り、創業100年を超えていて、最初は鉛筆や筆などの文房具を扱う小売店だった。時代の要求に合わせるように、扱う品目を増やしていき、いつのまにか法人向けのコピー機やファックス、プロジェクターなどの販売が主力になって行った。祖業の文具販売は縮小に継ぐ縮小を重ねた上で店舗は閉鎖し、今では創業の地だった場所は、「本社」と呼ばれるようになっている。
「本社」などと言っても狭い空間に事務用デスクとその他必需品をを並べただけの事務所。ここで常時働いているのは「専務」という肩書の付いた社長のいとこを含めて5人だけで、ほかの社員は県庁所在地である隣の市の営業所と、20年ほど前に買収したという、広告チラシや名刺やはがき印刷工場兼倉庫に通勤している。社長も常に、営業所のほうに行っており、ハルカは最初の面接以来、社長と顔を合わせたのは一度きりだった。
 本社での仕事は、もっぱら事務ばかりで、納品書や請求書の作成や発送、営業所と印刷工場の経理、役所に提出する書類の準備、意外にやっかいだったのは、営業所の従業員から要求されるプレゼン資料作りだった。
 使ったこともないような事務用電話機の販売資料を作れと言われても、なかなかできるものではない。ハルカはいつも悪戦苦闘しながら、適当に響きの良さそうな文言をでっちあげて、パソコンに入力するのだった。
 転職してまず最初に驚いたのは、この会社はコピー機、正確には複合機を遠慮せずにどんどん使用することだった。前の会社ではペーパーレス化がかなり進んでいて、社内の資料は添付ファイルでメールで送信するというのがふつうだった。プリンタで印刷することもないではないが、その場合でも白黒で印刷し、カラーを使うことはまずなかった。
 一方でこの会社は、何か必要な、あるいは必要になりそうな資料があったら、とりあえず事務所のすみに置いてある大型複合機で印刷し、紙を手で持って目を通す習慣になっていた。
 ハルカの目にはそれがひどく無駄に見えて、遠慮がちに先輩に指摘したことがあるのだが、
「まあ、そんなのケチらなくてもいいよ。ウチは商売柄、紙もトナーも安く仕入れることができるんだし」と軽く言った。
 そんな周りに流されたのか、ハルカもいつの間にか、遠慮せずに大型複合機に向かってコピーを取ったり、作成途中の資料を試しに印刷したりすることが多くなっていた。
 複合機は某社の旧型のものだったが、印刷スピードは速く、スキャナ、ファックスなどの機能も付いている。手入れも行き届いていて、この会社において大事に扱われていたのが一目でよくわかった。

 終業時間の午後六時になった。専務が真っ先に席を経って、「それじゃ、お先に」と言い、大きなカバンを手に持って帰って行った。
「お疲れ様でした」と一同が言った。
 10分ほど経過すると専務に続いて、二人の男性社員が帰って行った。そして、「本社」でハルカ以外の唯一の女子社員も、手提げのバッグを持って帰宅の途に就いた。
「大田さんは、まだ帰らないの?」
 そう声を掛けてきたのは、上野ヒロシだった。ヒロシはハルカより三歳年下だから、今年で28歳ということになる。
「ええ。ちょうどキリのいいところまでやっておきたいですから」
「ウチの会社、残業代出ないのに、よくがんばるねえ」
 この会社ではヒロシはハルカより先輩ということになるが、ハルカのほうが年上という、少しめんどくさい間柄だった。しかしいつのまにか、ハルカが敬語で話してヒロシがタメ口というのが定着していた。別にそれがイヤなわけではない。むしろ、どっちも敬語を使うという遠慮がちな関係が続くよりは居心地がいい。
「上野さんは?」
「うん。同じ。とりあえず今日でこの仕事は片づけておきたいから」
 古いセイコーの壁掛け時計を見ると、6時半を過ぎていた。
 ヒロシはいわゆるイケメンの部類に入る。切れ長の目の上に、まるで猛禽類の翼のような眉毛が走っている。あごは少し尖っているが、それが顔の輪郭をはっきりさせている。センター分けにした髪の毛は、地毛だがまるで上品に染めたようにうっすら茶色をしている。身長が少し低いのが玉に傷だが。
「今日も、ホームページ作りですか?」とハルカが聞いた。
「そうなんだ。社長が安請け合いして、複雑な仕様になったから、けっこう大変で」
 最近、ヒロシのデスクの上にはいつも分厚いHTMLやJava Scriptの辞書が置いてある。
 文角堂では、つい最近、法人向けのホームページ作成の業務を開始した。と言っても担当してるのはヒロシだけだ。たまたま本社に来た社長が、ヒロシと会話をしているうちに、ヒロシが昔サーバーを借りて自作のホームページを持っていたという話をしたところ、実験を兼ねてこの業務を開始することになった。文角堂の取引先である地方の中小企業でも、自社のホームページを持ってみたいという需要はそれなりにあって、納品はすでに1か月待ちの状態だ。ヒロシにしてみれば単にやっかいな仕事が増えたことになるので、口は災いのもとというのを実感した。
「大田さんは、今何してるの?」パソコンの画面を見つめたまま、ヒロシが言った。
「営業所の売り上げの集計です。先月よりも品目が増えたらしくて、ちょっと時間がかかってるんです」
「へえ」
 ハルカはテンキーを打つ手を止めて、画面をじっくり眺めた。表計算ソフトの細かい枠のなかに、アリの大群のように小さな数字が詰まっている。数字に間違いはなさそうだ。パソコン画面左上の「ファイル」をクリックして、「印刷する」ボタンを押した。「印刷中。しばらくお待ちください」というポップアップが出た。事務所の端っこで、窓のすぐ手前に置いてある複合機が、低いモーター音を立てて合計三枚の紙を吐き出した。
 ハルカは立ち上がって複合機の前まで行き、印刷されたばかりでにわかに熱を帯びている紙を手に取った。それを見て、
「あー、やっぱりズレてる」と独り言のように言った。
 表計算ソフトは、パソコンの画面に表示されるものと印刷されるものとではなぜか微妙に誤差があって、うまく印刷できないことがたびたびあった。今ハルカの手もとにある紙も、A4用紙のいちばん右端の数字がいくつか途切れていた。表計算ソフトのセルの枠をもう一度修正しなおさなければならないが、手間を思うとうんざりした。その作業に要する時間は、おそらく30分くらいだろうとハルカは見積もった。
 とりあえず終業時間は過ぎているので、今日はもう帰って続きは明日の朝からやればいいのだが、何か腰の落ち着きが悪いような気がした。
 ハルカはまるで怒られた子供のように肩をうなだれて視線を下に落とすと、複合機の下に、10センチくらいの小さい白い紙が落ちているのを見つけた。
 しゃがんでその紙を手に取る。

  株式会社文角堂

  伊藤ミオ

  〒○○○―△△△△
  ××県○○市○○3丁目45
  TEL ▲▲-□□□□―□□□□

 名刺だった。
 ハルカはその名前には心当たりはない。少なくとも本社勤務に伊藤という苗字の人はいない。営業所か工場勤務の人だろうか。
「あの、上野さん」とハルカはキーボードを叩いているヒロシに声を掛けた。「伊藤さんって、どなたですか? なんかここに名刺が落ちてたんですけど」
「伊藤? 伊藤ミオさんのことかな?」
「ええ、そうです」そう言ってハルカはもう一度手のなかの名刺を見た。
「伊藤さんは……」ヒロシのキーボードを打つ手が止まった。「いわば、大田さんの前任者ってことになるかな。少し前まで、ここで働いてたんだけど」
「へえ」
 こんな小さな「本社」なら、新たに求人があったということは、その前に誰かが離職していたということとほぼ同義だ。しかしハルカはヒロシにそう言われるまで、自分の前任者のことなど考えたこともなかった。
「大田さんが入社するまでは、伊藤さんの穴を埋めるためにけっこう大変だったんだよ。なんせ、ご覧の通り、少人数で回してるからね。あのいっつも六時になったら速攻で帰る専務ですら毎日残業してたくらいだから。新しい人が入ってくる、しかもあの○○商事で働いてた人で即戦力が期待できるって聞いたときは、みんな喜んだもんだ」
「そうですか」
 ハルカは以前の自分の勤め先がそのように言われても、それほどうれしい気持ちはなかった。一方で、この会社での貢献が評価されているということを知って、それは素直に喜んだ。
「この伊藤ミオさんって方は、いつくらいにお辞めになったんですか?」
「いや……」とヒロシが珍しく口ごもる。万が一こぼれたときにキーボードを汚さないよう、わざと遠くに置いてあるコーヒーカップに手を伸ばして、一口飲んだ。「伊藤さんは、失踪しちゃったんだよ」
「え?」
「半年ほど前のことかな。前日までは普通に会社に来てたんだけど、いきなり無断欠勤が続くようになってね。みんな心配してて、ご実家のほうにも専務が連絡したんだけど、そっちにも帰ってないらしくて。ご両親が捜索願いを出して、うちにも警察が事情聴取に来たんだけど、こっちとしてもまったく心当たりはないから答えようもなかったんだ。警察が言うには、部屋も特に荒らされた様子もなかったようで事件性なしということで、……まあようするに、よくある家出のようなものと扱われたらしいよ」
「はあ……」
 ハルカはそれを聞いて、どう反応していいやらわからなかった。もう一度、名刺を見てみる。伊藤ミオさんは今どこで何をしているのだろう。しかし、伊藤ミオさんが失踪したおかげで、自分がこの会社に入社できたということを思うと、複雑な気持ちになった。
「それじゃ、僕はそろそろ帰るから」 ヒロシは机の上に転がっている私物の文具をまとめ始めた。「大田さんは、まだ?」
「ええ、そのつもりです」
「それじゃ申し訳ないけど、戸締りよろしくね」
「はい」
 ハルカが椅子に座るのと交代するように、ヒロシが椅子から立ち上がった。そしてヒロシはカバンのストラップを肩に掛けた。
「あのさ、大田さん」
「はい」
「あの、こんなこと聞いたらセクハラって言われるかもしれないけど、大田さん、彼氏はいるの?」
 ヒロシの机の上で、パソコンがシャットダウンするときの効果音が鳴った。
「いませんけど……」
「それじゃ今度いっしょに食事にでも行こうか」
「え? ……あ、はい。ぜひ」
「それじゃ、今度」ヒロシは左手を軽く振って、ドアを開けて去って行った。
 ヒロシが事務所から出た後、ハルカはしばらく印刷された紙を持ったまま茫然としていたが、これはデートに誘われたのだとようやく自覚して、少しだけうれしくなった。ここ数年しばらくそういうつやつやした話から遠ざかっていた。別にヒロシに片思いをしているわけではないが、ひさしぶりの温かい感情が胸に去来する。
 ハルカは決して美人でもなければスタイルがいいわけでもない。気が利く、とか、家庭的とか、そういう美点も一切ない。前の会社で自分より若い後輩が次々と結婚してゆく姿を見た。その幸せそうな様子を、うらやましいとは思ったが自分には手に届かないものと最初からほぼ諦めていた。30歳を過ぎたあたりで、「ほぼ」が消え去り完全に諦めて、色恋沙汰からも遠ざかり、どうやって一人で生きていくかを模索するようになった。ひょっとしたら、転職もその手段のひとつだったのかもしれない。
 さっきのヒロシの言葉を反芻し、思わず顔がニヤケてしまう。単なる社交辞令かもしれないという考えも一瞬頭をよぎったが、とりあえず良いほうに捉えることにした。
「さて、がんばろう」誰もいなくなった本社の事務所で大きな声でそう言うと、赤ペンを手に持って、印刷した紙のどの部分を修正するべきか、パソコンの画面と比較しながらマルを付けて行った。
 一人になると、壁掛け時計が秒針を動かす音がよく響く。
 30分ほど、マウスとキーボードを操作して、とりあえず作業は終わった。再び、祈るような気持ちで、ディスプレイに表示された「印刷」のボタンを押す。
 複合機が低い音を立てて、紙を印刷していく。ハルカは複合機の前まで行き、それらを手にとった。
「よしっ」と小さくガッツポーズをする。
 二枚目、三枚目をめくって、一枚目と同じようにうまく数字が枠に入っていることを確認した。
「あれ?」
 紙をめくるハルカの手が止まった。三枚しか印刷してないはずなのに、なぜか四枚目がある。誰かが取り忘れたのだろうか。いや、そんなはずはない。ハルカの前にこの複合機で印刷したのは、ハルカなのだから。もしくは、そのときハルカが気付かずに、ずっとこの紙はここにあったのだろうか。
 その謎の四枚目には、小さな文字で、

 やめろ

 とだけプリントしてあった。
 いったい、誰が何の目的でこんなものを印刷したのだろう。いくらトナーや紙が豊富に使える会社だとしても、この使い方は贅沢すぎる。そもそも「やめろ」という文字だけを印刷する必要が、いったいどこにあるのだろう。
 ハルカはその紙をくしゃくしゃに丸めると、ゴミ箱のなかに放り込んだ。
「あー、疲れた」と言って背伸びをする。
 時間を見ると、午後7時を少し過ぎたところだった。

 数日後、朝ハルカが出勤すると、ほかの人はまだ誰も来ていなかった。いつもは、先輩のうちの一人か二人は先に来ているのだが、めずらしいこともあるものだと思った。特別、今日だけ早く家を出たというわけではない。
 文具や携帯電話、仕事で使う書類などが入ったバッグを自分の机に置いた。まあ、あと15分もすればみんなやって来るだろう。そう思いながら、パソコンの電源を入れた。
 パソコンが起ち上がるまでのあいだ、バッグの中から朝コンビニで買ってきたブラックの缶コーヒーを取り出して、開けて飲む。これがハルカの日課だった。もともとコーヒーが好きなのもあるが、朝の眠気を完全に吹き飛ばすためでもある。
 缶コーヒーから口を離し、「ふうっ」とため息を吐いたとき、いきなり背後で妙な音がし始めた。驚いて振り向くと、複合機が勝手に動き始めて、一枚の紙を吐き出した。
「え? 何?」
 もしかして、電源を入れたパソコンに触れてしまって、印刷が始まったのだろうかと思ったが、パソコンはようやくデスクトップ画面になったところで、ソフトはまったく起動していない。昨日、このパソコンで何かの処理をしていたのが途中で中断されてしまって、電源を入れたのが契機になって再稼働したのだろうか。ハルカは昨日の帰り際の仕事を思い出したが、おそらくそんなことはないはずだと思う。
 印刷されたばかりの紙を手に取る。

 やめろ

 今度は、前よりも大きな文字でそう印刷してあった。
 さすがに二度目となると、気持ちが悪い。この複合機はオンラインにも接続できるようになっているから、インターネット経由で何かいたずらでもされているのだろうか。ハルカは複合機の上蓋を開けてみたが、何もない。いちおう念のため、用紙をセットするトレイも開けてみたのだが、何もおかしなところはなかった。
「おかしいなぁ。でも、故障ってわけでもなさそうだし、どうしようもないわよね」そう独り言を言ってると、背後で扉が開く音がして、
「あ、大田さん。おはよう」と言いながら、ヒロシが出勤してきた。
「上野さん、おはようございます」
「今日は、早いね。大田さんは真面目だね」
「いえ、私は真面目だけが取り柄ですから」
「あのさ、大田さん」
「はい」
「この前の話なんだけど」
「ええ」
「もし迷惑じゃなかったら、今日なんかどう? 仕事終わった後に。高校のころの同級生が、食べ物屋の息子で、そいつも今はそこで働いてるんだけど。けっこう人気な店で、何か月か前から予約してないと行けないようなところなんだ。でも、今晩急に一件キャンセルになったって連絡があってさ。ここからすぐ近くにある店だから、いっしょに行ってみない?」
「え、あの、えっと、その」とハルカは口ごもったが、「ぜひお願いします」
「そう、よかった。じゃちょっと店に予約入れるね」
 ヒロシは携帯電話を胸ポケットから取り出して、電話を掛けた。
「あ、もしもし。オレ。うん、さっき言ってた件だけどさ、よろしく頼むよ。いや、メニューはそっちにまかせるから。酒は……、ちょっと待って」ヒロシは携帯電話から耳を離して、「大田さん、飲む?」と聞いた。
 ハルカが手を振ってノーを示すと、
「酒は、いいわ。……あー、それじゃ、ビールだけ」と言って電話を切った。
「あの、ありがとうございます」
「いやいや、こっちがお礼言いたいくらいだよ。それじゃ、よろしくね」
 やめろ、とだけ印刷されたこの奇妙な紙のことを、ヒロシに訴えてみようかとも思ったが、このにわかに幸せな雰囲気を壊したくないと思ったハルカは、紙を細かく何度も折って、ゴミ箱に捨てた。

 午後6時半。仕事が終わった後、ハルカはヒロシに連れられて食事に行った。ハルカはてっきり、洋食とばかり勝手に思い込んでいたのだが、ヒロシが連れて行ってくれた店は和食のお店で、しかも食べ物屋というよりも「料亭」とでも呼んだほうがしっくりくるような豪華な店だった。
 整然と植えられた松の木がまるで狛犬のように入り口の左右で来客を迎え、白っぽい御影石が玄関までの道を誘導している。
 横開きの扉を開けて入店すると、すぐに仲居さんが現れて部屋に導いていく。

 ふすまを開いて、床の間のある和室六畳の部屋に通された。何と書いてあるかさっぱりわからない、書の掛け軸が掛けてあって、その前には備前焼のような大きな壺が置いてある。
 ハルカはヒロシと向かい合って、分厚い座布団に腰を下ろした。
「ビールをお運びしてよろしゅうございますか?」小紋の和服をきっちりと着込んで両肩にたすき掛けをしている仲居さんが、畳の上に正座して言った。
「お願いします。大田さんは、何飲む?」
「いえ、あの、ふつうのお茶で」こういう店は初めてだったので、ハルカが戸惑うように言うと、
「かしこまりました」
 仲居さんは、正座をしたまま深く頭を下げて、部屋から退出した。
 ハルカは慣れない雰囲気に緊張して何も言葉が出ない。いったい、このお店で食事をしたらいったいどれくらい料金がかかるのだろうと、気が気でなかった。ヒロシはしょっちゅう、こんな料亭に出入りしてるのだろうか。普通の生活をしている自分には、一生縁のないようなお店だ。
「本当に、迷惑じゃなかった?」とヒロシが言った。
「いえ、その、うれしいです」
「そう、良かった」
 ヒロシが手もといあったおしぼりで手を拭き始めたので、ハルカもそれに倣った。
「失礼いたします。お飲み物をお持ちしました」さっきの仲居さんの声ではなく、男の声だった。
 ふすまが開くと、和食の職人用の白い調理服を来た男の人が居た。
「本日は、ようこそお越しくださいました」もう一度頭を下げる。
「よお、若大将。今日はすまんね」とヒロシがいつになく陽気な声で言う。
「おいヒロシ、若大将はやめてくれと言ってるだろ」いきなり口調が変わった。
 この人がヒロシの同級生なのだろうとハルカは察した。
「本当に、ビールだけでいいのか? 熱燗がいるならいくらか付けて来るが。どうせ代行で帰らないといけないんだったら、がっつり飲んでいけばどうだ?」引き続き、砕けた口調で料理人が言った。
「それじゃ、あとで一本だけ頼むかな」
 テーブルの上にビールとお茶が置かれた。
「こちら、最近ウチの会社に入った大田ハルカさん」とヒロシは適当にハルカのことを佐藤に紹介した。
「あ、申し遅れました。わたくし、当店の料理人、佐藤トシフミと言います」佐藤がハルカのほうを向いて、改めて言った。
「大田です。よろしくお願いします」
「大田様は、何か特別にお嫌いな食べものや、アレルギーなどございますでしょうか?」
「いえ、特には……」
「左様でございますか。ではそろそろ運ばせていただきます」
 佐藤がうやうやしく退出した後、
「あの、上野さん。このお店、高いんじゃないですか?」と勇気を出して聞いてみた。
 するとヒロシは、
「あっはっは。まあ、高いと言えば、高いけどね。でも、心配しなくてもいいよ。今日みたいに急にキャンセルがあった場合は、いつも飲み物代だけで食わせてもらってるんだ。どうせ捨てるくらいなら、タダでお前に食わせてやったほうがマシだって、さっきの若大将が言ってね。こういう店だから、客もそれなりに地位のある人が多いらしくて、当日になって予約取り消しなんてことが、しょっちゅうあるみたいなんだ」
「本当に、それでいいんですか?」
「ああ、大丈夫だよ。自腹じゃ、こんな高級店来れないよ。でも、内緒にしといてね。若大将は、父親である大将にもこのことを言ってないみたいだから」
 それを聞いて、ハルカは安堵した。
 まず最初に、絹ごし豆腐の上に銀杏の実と紅葉おろしをあしらった冷ややっこが、鮮やかな伊万里焼の小皿に乗って運ばれてきた。次は、黄色い食用菊の花びらと三つ葉が鮮やかに浮かんだメバルのお吸い物。その次は、ヒラメの刺身。
 どれもこれも、言葉では言い表せないくらいに美味しい。
「大田さんは、入社してどれくらいだっけ?」
 深い緑色をした割山椒の織部焼には、軽く焼いた牛のヒレ肉をわさび醤油で味付けしたもがきれいに盛り付けられていた。
「えっと、だいたい三か月くらいです」
「へえ。もっと経ってるのかと思った。なんか、もう半年以上になるような気がするよ。もう、会社には慣れた?」
「ええ。営業所の人とはあまり接することがないから、まだ顔と名前が一致しないですけど、本社で働くぶんには、なんとかやってます」
「働く上で、何か困ったことはない?」
「いえ……」と言ってハルカは少し考えた。
 前の会社と比べたら、条件が悪いことはまちがいない。しかしそれは最初からわかっていたことで、口にするのは筋が違う。働く環境そのものは、決して悪いものじゃない。法定の福利厚生はきっちりと加入してあるし、就業規則も大きく逸脱しない程度に守られている。社員どうしの関係も、少なくとも本社で働く人間のあいだでは、良好だ。
「あの、ひとつだけいいですか?」
「うん。何?」
「本社で使ってる複合機のことなんですけど……」
「複合機?」
「ええ、あの複合機、ちょっと古いタイプのでしょう。いつくらいから使ってるのかなって」
「さあ……、僕が入社したときからずっと同じ物を使ってるから、10年近くは経ってるね。それがどうかしたの?」
「えっと」ハルカは勇気を出して言った。「たまに誤作動とか、することないですか? うまく印刷できなかったり、勝手に動いたり」
「うーん。ないと思うけど。最近僕はあんまり印刷しないから。何か、あった?」
「先日、三枚のものを印刷したら、四枚紙が出てきたんです」ハルカは四枚目に印刷されてあった文字のことは伏せた。
「へえ。そんなことがあったんだ。……でもそれじゃ、複合機のほうが誤作動したのか、パソコンのほうがおかしいのか、両方有り得るね。どっちかって言うと、パソコンのほうがおかしくなることが多いと思うけど」
「あ、そっか。そうですね」ハルカはその可能性を考えていなかった。言われてみれば、誤作動しやすいのは明らかに複合機よりもパソコンのほうだ。
「まあ、またもしおかしなことがあったら、専務に遠慮せず言うといいよ。なにせうちの会社は複合機の販売やリースも取り扱ってるからね。すぐに新しいのが用意できるはずだよ」
「はい」
 寿司が運ばれてきた。ネタは、中トロ、サヨリ、サーモン、タイ、ブリ、タマゴ、ウニとイクラの軍艦。ヒロシは日本酒を飲み始めている。ハルカは表面が薄く色づいている青磁の徳利を持って、お酌をした。
「大田さんは、なぜ結婚しないの?」にわかに酔いが回ったらしいヒロシが、遠慮なしにそんなことを聞いた。
「しないんじゃなくて、できなかったんです。あんまり意地悪なこと言わないでください。ご覧の通り私、あまりモテるタイプじゃないから」
「そんなことないと思うけど」
「いい人がいたら、紹介してくださいね」とハルカははぐらかした。
 結局その日は、それ以上話が進展することはなかった。ハルカは徒歩で、ヒロシは代行運転を呼んで帰宅することになった。お会計は本当に飲み物代だけですんで、しかもそれはヒロシが全部持ってくれた。元来、男性に食事をごちそうしてもらうのは苦手だったが、値段が安くすんだこともあって気が楽だった。
 500メートルほど歩いたところで、お礼のメールを送信しておこう、そう思ってハルカはバッグのなかに手を突っ込んだ。
「あれ? おっかしいな」
 立ち止まり、バッグのなかのものを引っ掻きまわすようにして携帯電話を探すが、ない。さっきのお店に忘れたのだろうか。いや、お店では一度も携帯電話を触らなかったから、それはないだろう。ということは、会社に置きっぱなしにしたのだろうか。
 会社までは、歩いても15分ほどだろう。ハルカは夜の道を会社に向かって歩き始めた。

 会社に着いて、蛍光灯の明かりを点ける。こんな夜遅くにここに来たことはないので、光の具合が窓の外の暗さが対照的で、ちょっとだけ違和感を感じる。
 ハルカは自分の机の上を見ると、パソコンのディスプレイのすぐ横に自分の携帯電話を見つけた。着信はなかったが、メールが一件だけ届いている。
 開封すると、

 今日は付き合ってくれてありがとう。
 またご一緒しましょう。

 というヒロシからのメールだった。
 ハルカは返信をすぐに書き始める。

 こちらこそ、ありがとうございました。

 それだけを入力して、それ以外に何を書こうかと逡巡した。もし次に誘われた場合は、どうしよう。今日はたまたま仕事帰りだったけれど、休日だったらどんな格好をしていけばいいんだろう。そんなことを、まるで女子高生のように考えていた。
 迷いに迷って、何度も文字を書いては消してを繰り返したが、結局、一行だけのメールを返信した。
 その瞬間、いきなり蛍光灯の明かりが消えて真っ暗になった。
「え? 何?」と言ってハルカは天井を仰ぐ。
 停電かな? そう思ったと同時に、複合機が轟音を立てながら動き出した。印刷原本を読み取るための黄色い光が、上蓋のすきまから漏れて左右に動いた。
「何よ、なんで停電なのに複合機だけ動くのよ」
 一枚の紙を吐き出して複合機は停止した。真っ暗闇のなかでハルカは複合機に近付き、紙を手に取った。窓の外から入ってくる街路灯の明かりを頼りに、目を凝らした。どうやら、地図を印刷した紙のようだ。しかし暗いために住所や地名などは読めない。
「やっぱり、これ故障してるわね。あした専務に言わなきゃ」
 地図が印刷されたということは、その原本となったものが上蓋の下にあるはずだ。ハルカは上蓋を開けてみた。
 しかし、そこには何もなかった。
「おかしいわね……」
 そのとき、また複合機が、ウィーンという音を立てて印刷を開始した。
「え……、きゃああああああ!!」とハルカは叫んだ。
 黄色い光が、コピー原本を置くガラス面の向こうで左右に移動する。それが照らしたのは、ガラスに張り付いてこっちを見ている人間の顔だった。パーマを当てたようなざんばら髪が逆立っていて、口や目尻から血を流している。開いた瞳孔がぎょろりと動いて、ハルカと目が合ったとき、その顔はニヤリと笑った。
 ハルカは上蓋を叩きつけるようにして下すと、まるで弾かれたかのように壁までのけ反って、倒れた。腰が抜けたのか、脚に力を入れてもピクピクと痙攣するだけでまったく動かない。呼吸が有り得ないくらい早く、叫ぶこともままならなくなった。複合機は引き続き、光を左右に振って音を立て続けている。
 複合機の上蓋が上下にカタカタと揺れる。その隙間から、マニキュアを塗った指が出てきた。その指は左右に動きながら、虫が這うかのようにしてゆっくりとこっちに向かってくる。最初は二本だけ伸びていた指が、四本になり五本になり、手首まで表れた。表面はぬめぬめした液体が付着しているようで、複合機の光を反射している。そして、肘まで出たところで、その腕は糸を引きながら上蓋の隙間から、ボトリと床に落ちた。床に落ちた腕は、痙攣しながら何かを探すように動いている。
 上蓋が、再びわずかに持ち上がる。黒い髪の毛が重力などないかのように上下左右に隙間からはみ出してきて、やがて上蓋が「バンッ!」という音とともに一気に開いたかと思うと、そこには血と痣だらけの女の顔があった。
「たすけて、たすけて……、たすけて。たすけ……」反響する声で、その顔は言った。
 ハルカはもはや耐えられないほどの恐怖を感じた。心臓が飛び出しそうなほどの鼓動を打って、吐き気がする。経験したことのないほど大きな耳鳴りばかりが聞こえてきて、ほかの音はいっさい聞こえないが、震えて上と下の歯が小刻みにぶつかる、カチカチという音が脳に直接響いた。
 ハルカは覚悟を決めて、目をつぶった。
 どれくらいの時間が経過したのだろう。化け物はまだ襲って来ない。
 急に、閉じたまぶたの向こう側で視界が明るくなった。ひょっとしてもう自分は死んでいて、天国というところにでも行ってしまったのだろうか。そんなことを考えながら、恐る恐るまぶたを開けた。
 まぶしい光が目に入ってくる。目の前には、複合機があるだけで、さっきの化け物は消えていた。まぶしい光の正体は、蛍光灯の明かりだった。
 大きなため息がしぜんと漏れた。もしかして、短い夢か幻でも見たのだろうか。
 ハルカは床にA4の紙が一枚落ちているのを見つけた。拾い上げてみると、それはさっきの地図だった。グーグルマップの衛星写真を印刷したようなもので、今度は明るいので地名が確認できる。ふたつとなりの市の山奥で、民家などほとんどない場所だ。小さな、農機具か何かを保管するような木の小屋があり、そこに赤いマークでしるしが付けてある。
 ハルカはその紙を持って、逃げるように会社から出た。

 翌日、強い雨が降っていた。ハルカは転職して初めて会社を休んだ。昨日の出来事がショックだったといのもあったが、どうしても昼のうちに確認したいことがあった。
 もちろん、心臓が飛び出るほどに怖い。しかし、このままではあの会社に出社するのが怖ろしいままだし、そうなれば間もなく辞職しなければならなくなるだろう。それはイヤだった。わずか三か月で辞職したとなると、次の就職先を見つけるのが難しくなるに決まっている。まさか「お化けが怖いから辞職した」などという話を親身になって聞いてくれる会社など、あるはずない。昼間ならお化けが出ることもあるまいと決め込んで、何があるのかわからないがとにかくヒントになる何かを見つけるために、ハルカはレンタカーを借りて、地図の場所にひとり向かった。
 高速道路を一時間、高速を降り、バイパス道路から横道にずれて細い山道を一時間ほど登ったところが、その場所だった。ハルカは傘を指して車から降りた。強い雨は地面をひどく柔らかく乱していて、少し歩いただけで靴は泥まみれになった。
 急な斜面に、古い小屋が建っている。衛星写真で見るよりもいくぶん大きく感じる。小屋のすぐ近くには、両手で押すタイプの小型の耕運機があったが、もとが何色だったかも判別できないくらいに錆びついていて、長らく使用していないことは一目瞭然だった。小屋の屋根はトタンで出来ていて、雨の粒がぶつかる音がしきりに絶え間なく続いていた。
 ハルカは小屋の扉を引っ張ってみたが、開かない。よく見ると扉の真ん中あたりに小さな南京錠が付いていた。
 傘を持つ手が落ちて来る水滴の重みで左右に振り回されると感じるほど、雨は強くなった。肩から背中にかけてずぶ濡れになっている。
 鍵を壊さないかぎり、中には入れそうにない。ハルカは小屋の裏側にまわった。
 トタン屋根には雨どいなどは付いていないため、屋根の上に落ちた雨粒がまるでひとかたまりのようになって、地面に落ちる。地面はその雨粒で大きく穿たれて、茶色い泥が断続的に跳ねていた。
 雨粒が掘り返した地面から、焦げ茶色をした細い何かが飛び出している。まるでかりんとうのようだと最初は思ったが、それを人間の指だと認識するまで、ほとんど時間を要さなかった。
「きゃあああ!」
 腰を抜かしてしまったハルカは全身泥まみれになりながら、地面を這うようにして自動車まで戻り、携帯電話で110番通報した。

 ハルカは第一発見者ということで、警察署で事情聴取を受けることになった。生まれて初めてパトカーに乗せられた。警官は全身を震わせてるハルカに気を使っていろいろ話しかけてきたが、ほとんど頭に入らない。乗り捨てる形になってしまったレンタカーは、警察から業者に事情を説明して交通課の人が代理で返却しておく、ということだけは理解した。
 警察署では泥まみれの服から拘置所で使うようなグレーのスウェットに着替えるように言われた。まるで自分が犯罪者になったかのような気分になったが、びしょ濡れの服よりはマシだった。
 取調室は、壁はコンクリートの灰色、机も椅子も灰色をしていた。刑事ドラマで見るのとほとんど変わらない。窓は付いているが、窓の向こう側に錆びた鉄格子が付いてある。
 最初は、発見された遺体は二十代から四十代の女性で、死後数か月経過していることなどを聞かされ、その後は発見したときの様子を繰り返し問われた。ハルカは有りのまま説明した。
 困ったのが、「なぜあんなところに行ったのか?」と尋ねられたことだった。
「たまたま、職場にあの場所を示した地図があったんです。興味本位から、行ってみることにしました」ハルカはそんなことを言った。
「ふうん」警官は納得してない様子だった。
 わざわざ会社を休んで、土砂降りの雨のなか、何があるかわからない山奥までレンタカーで行く者などいるだろうか。我ながらハルカはそう思った。
「あなたの勤め先、教えてもらってもいいですか?」
「ええ。となりのとなりの市の、文角堂っていう会社です。定款や登記では文具販売業ってことになってるはずですが、実質的には事務機器の販売やリースなどをやってる会社です」
 ひょっとしたら、この警察署にも文角堂が納品した機器があるかもしれない。ハルカはそんなことを考えられるほどには、余裕を取り戻していた。
「え?」警官は、顔色を変えて、「ちょっと、待ってて」と言って取調室から出て行った。
 間もなく、警官は戻ってきた。そして、大きく息を吸い込んで、
「あのね……。あなたが発見したほとけさん、ご遺体は……まだ確定したわけではないんだけど、捜索願が出ていた、伊藤ミオさんなんだよ」
「え? そんな……」ハルカは椅子から立ち上がった。
 ようやく取り戻したはずの気持ちの余裕は一気に霧消した。複合機の下に落ちていた名刺、複合機から這い出してきたあの女の顔を思い出して、ハルカは背中が縮こまるくらいの怖ろしさを感じた。
「同じ会社なら、知ってるでしょ。半年ほど前だったかな、突然失踪した、伊藤ミオさん」
「いえ、知りません!」とハルカは恐怖を打ち消すかのように、大きな声で否定した。「いや、その、知らないっていうのは、面識がないってだけで、伊藤ミオさんという方が在籍していたということは知ってます。私が文角堂に入社したのは三か月ほど前ですから、伊藤さんとは入れ違いです」
 警官の表情が一変したと、ハルカは感じた。
「ということは、文角堂さんの女性が失踪して、偶然、あなたがそこに就職して、偶然、あなたが遺体を発見したってこと?」
「私、何もやってません!」
 ハルカの絶叫があまりに大きかったためか、警官はハルカに椅子にもう一度座るようにしぐさで促した。
「いやいや、失礼しました。あなたの言ってることが本当かどうかは調べればすぐにわかることですから……。世の中、少数の疑う人間がいるから、多くの人が疑われずにすむっていうのを、ご理解ください。そもそも、あなたには動機がありませんね。本当に、すみません。お詫びします」
 そのとき、着信音が取調室に鳴り響いた。机の上に財布といっしょに無造作に置いてあった、ハルカの携帯電話だった。
「あの、出てもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
 ディスプレイには、「上野ヒロシ」と表示されていた。
「もしもし、大田さん? 今どこにいるの?」ずいぶん久しぶりにヒロシの声を聞いたような気がした。
 その声にハルカは安心を覚えた。
「あの、今警察署で取り調べを受けてて……」
「びっくりしたよ。さっき警察から会社に連絡があって、伊藤さんが遺体で見つかって、しかも発見者が大田さんだって聞いて、信じられなかったんだ。どう、大丈夫なの?」
「ええ、なんとか」
「取り調べ、いつ終わるの? 帰りはどうする?」
 そういえば、帰りのことを考えていなかった。こういう場合、パトカーで送ってくれたりするのだろうか。山に置きっぱなしにしたレンタカーは警察が運転して今ごろ、業者に返却しているに違いない。それとも、ハルカが運転していたあの車も、捜索の対象になっているのだろうか。
 返事に困っていると、
「僕、迎えに行くよ。○○市の中央警察署でいいんだね? 今から行って近くで待ってるから、終わったら電話してよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
 警官の顔を横目で見ると、その表情は、明らかに電話を早く終えるよう催促していた。
「本当に、ありがとうございます。続きがあるので、また」ハルカはそう言って電話を切った。

 取り調べが終わって解放されると、もう夜になっていた。携帯電話にヒロシに連絡を入れると、すぐ近くにある大きな郵便局の駐車場に居るということだった。
 ずいぶん遅くなってしまった。移動の時間を除いても、三時間は待ったことになるだろう。
 雨はいつのまにか止んでいた。灰色のスウェットは借りて帰ることになった。びしょ濡れになった服はスーパーの袋に入れてもらい、手に持っている。靴は泥まみれのままだったが、これはどうしようもない。化粧もすっかり落ちてしまっていて、この顔をヒロシに見られると思うと少し憂鬱だった。
 エンジンがかかったままのヒロシの車を見つけて、ハルカは窓ガラスを軽くノックした。窓ガラスが開く。
 ハルカはすぐに、
「すみません。お待たせしました。ありがとうございます」と言って頭を下げた。
 ヒロシはなぜか、サングラスを掛けていた。
「お疲れさま。大変だったね。まあ、乗ってよ」
「はい」
 ハルカは助手席に乗った。郵便局の駐車場から出て、少し走ったところでヒロシはサングラスを外した。
「本当に、驚いたよ。まず、大田さんがいきなり会社休んだことに驚いて、もしかして僕、昨日あの料亭で酔って何か失礼なことでも言っちゃったんじゃないかと思った」
「いえ、そんなことないです。……昨日は本当にごちそうさまでした」
「いやいや、僕がごちそうしたわけじゃないから」とヒロシは苦笑した。
 それ以降、小さい音でスピーカーから出ているどこか外国の音楽と下から伝わってくるエンジン音をのぞけば、車中は何一つ音がせずに、静かになった。
「大田さん、大丈夫?」車で一時間半ほど走り、残りあと20分ほどになったところで、ヒロシが沈黙を破ってそう言った。
「ええ、なんとか」
 本音を言えば、大丈夫じゃない。何が起こったのか、自分の頭のなかで整理しきれていない。
 なんで自分がこんな目に会わなければならないのだろう。きっとまた近いうちに、事情聴取とやらをされるに違いない。
 何かを自分が後悔してるらしいことはわかるのだが、それが何かはわからない。今日、山の小屋まで行ったことか、それとも転職したことを自分は後悔してるのだろうか。
「もしよかったら、うちに来ない?」
「え?」
 ヒロシが言ったその言葉が何を意味するのか、いくつか解釈のしようがある。
 車の窓の外は、すっかり真っ暗になっていた。昨日から、暗闇のなかで一人で居るのは、耐えられないほど怖い。誰でもいいから、そばにいて欲しい。そんな気持ちがずっとあったが、ヒロシの言葉でそれが胸のなかで一気に増幅された。

 ヒロシの一人暮らしをしている部屋は、古いタイプのワンルームだが8畳以上の広さがあって、広々としていた。洋服箪笥や家電製品など、最低限のものしか置いておらず、よく言えばこざっぱり、悪く言えば殺風景だった。
「すみません。こんな格好で」ハルカは自分のスウェット姿が恥ずかしくなって詫びた。
「いや、仕方ないよ……。ごめん、飲み物は、こんなのしかなくて」とヒロシは冷蔵庫から500ミリのビール缶を出した。
「すみません。いただきます」
 ハルカはビールのプルタブを引いて開けた。苦い液体が喉を通り、胃の中で炭酸が弾ける。
 ふだん、ほとんどアルコールは飲まない。飲んだとしても、すぐに酔ってしまってせいぜいコップ一杯くらいが精いっぱいだ。泥酔することなどしばらくなかったが、今日の出来事を振り返ると飲みすぎて意識が飛んでしまえばいい、そんなことを思った。
「食べ物、何もないんだ。コンビニ行ってちょっと買ってこようか。それとも、出前でも取ろうかな」
「いえ、いいです。そんな、気を使っていただかなくても」
 ヒロシはテレビを点けて、音量を小さくした。しばらくふたりでビールを飲みながら、流れているテレビ番組の感想を言ったり、何気ない雑談をしながら過ごした。
「あの、すみません。ちょっとお手洗いを」飲み慣れないものを飲んだせいか、お腹が水分でいっぱいになった。
 ハルカが立ち上がったとき、背後からヒロシが抱きついてきた。
 いや、抱きついてきたのとは明らかに違う。腕をハルカの細い首に回して締め上げている。苦しい。喉が圧迫されて呼吸ができない。
「あ、……が……」などという、声にならない声を口の端から漏らすのが精いっぱいだった。
「余計なことしやがって」とヒロシは耳元で言った。「なんであの場所がわかったんだ? お前、いったい何を知っている? 警察に何を話した」
 両手でヒロシの腕を叩いて、やめてくれと訴えるが、ヒロシはより力を込めてハルカの首を絞めた。
「お前がミオの死体なんぞをほじくり返さなければ、完全犯罪だったのに。……お前が何を知ってるのかはわからないが、どうやら俺にとってお前が生きてることは不都合らしい。すまないが、死んでもらう」
 ハルカは失禁してしまった。スウェットに吸われなかった尿が足首まで流れた。
 信じられない。冗談に決まっている。あんなに誠実でやさしそうだったヒロシが、そんなことをするなんて。
「ミオのやつも、ここでこうやって俺に殺されたんだよ。責任取れとか、一人で産んで育てるから認知しろとか、めんどくさいことを言って来てな。つい頭に来て、殴って首を絞めたら動かなくなりやがった。そしてそこの風呂場でバラして、山小屋まで運んだ。あそこの山はオレの死んだじいさんのものだったんで、オレ以外に行くようなやつはいないと思ってたんだがなあ。馬鹿なやつだ。……そうだ、いいこと思いついたぜ。ミオを殺したのがお前ってことにして、お前は警察から逃げるために失踪したっていうストーリーはどうだ。どうせ今頃警察は、お前のことを重要参考人って位置付けてるだろうしな。俺にとって、一石二鳥だ。そううまくいくとは限らないが、やってみる価値は有りそうだ。どうせ俺は、捕まったらしばらく出て来られない身だ。今さら少々罪を重ねても、たいしたことあるか」
 意識がなくなりそうなそのとき、部屋のインターホンが鳴った。
「警察だ。開けなさい」外から激しくドアをノックする音が聞こえる。
「な、なに?」
 一瞬、腕の力が緩んだ隙に、ハルカは、
「たすけて、助けてください! お願い」と叫んだ。
「ちくしょう、てめえ!」ヒロシはハルカの頬をはたいた。
「きゃあ」
 隣室のベランダから、制服を着た警官が飛び移ってきた。中の様子を見るやいなや、警棒で窓ガラスを割って部屋のなかに入ってきた。
 ヒロシは現行犯で逮捕された。二人の警官が現場検証に残ったが、ハルカは涙が止まらずに何もしゃべることができなかった。
「大丈夫かい? まあ、落ち着いてから話してくれたのでいいよ。……でも、あれは君が送ったの?」
 警官が何を言っているのかよくわからないが、ハルカは泣きながら首を横に振った。
「あんな通報が来たのは初めてだよ。警察署にファックスが来て、殺される助けてという文字とともにここの住所が書いてあってね。送り主はたしか、文角堂っていう会社で、このアパートとは住所が違ったから、最初はいたずらだろうと思ったんだけど、いちおう念のため調べてみようってことで来たんだ」

 翌々日、ハルカが会社に出勤すると、複合機に一枚の紙が印刷されていた。「ありがとう。さようなら」と書いてあった。

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