【小説】山城を征く

 山のふもとを東西に拓かれた広域農道は、大蛇の腹のように波打っている。
 私は二週間に一度、自動車でこの道を通る。「農道」と言っても、きれいにアスファルト舗装された片側一車線の道路で、左手の山の斜面にみかんやキウイなどの果樹園が広がり、右手の下った景色には田んぼや畑が見える。
 隣の市へ行くには海沿いの国道を通るほうが近いのだが、あちらは場所によって(特に道の駅付近)は渋滞していることがあるので、それを避けるために山側のこの道を通るようにしている。正確に数えたわけではないが、こちらは十キロ進んで対向車とすれ違うこと五台に満たないくらいに空いている。
 農道の終点からは国道に合流し、そこから目的地に到着するにはさらに二十分ほどを要するだろうか。その会社は、乾きかけの藻屑のにおいに満ちた漁港のごく近くに立地している。

 有限会社H食品は、材料加工をする古く狭い工場に、プレハブ小屋のような事務所が付属しているような作りになっている。
 H社長は今年五十八歳の男性で、私よりも二十近く年上となる。H食品は、H社長の祖父が昭和初期に海産物の加工を個人事業として始め、のちに法人成りして今に至っている。
 H社長と、H社長の奥方が役員として就任しており、H社長の甥っ子が番頭役を務めている。従業員は古株の正社員三名と、パート従業員五名という、典型的な街の中小企業。
 私はH食品の顧問税理士を担当しており、二週間に一回の頻度で訪れ、必要な資料を預かり、またこちらで作成した資料をH社長に手渡し、そして僭越ながら経営アドバイスなどもする。三年前、H食品の顧問をしていた同業者が高齢を理由に引退したので、その後を引き継ぐという形で、私が顧問に就くことになった。
 遠慮せずに現在の状況を述べると、H食品はもう保たないというのが私の感想だった。顧問である私は、ある面ではH社長よりもH食品について詳しく知っている。
 H食品は近隣の旅館やホテル、仕出し屋などをメインの顧客としていて、大儲けはしないもののずっと手堅く営業していた。顧客からも高い評価を受けており、へんな欲を出さなければ失敗するということはないように思われた。
 しかし、誰も予期せぬ観光業の大不況により、売り上げは蒸発した。
 まさに蒸発だった。ガスコンロにかけた薬缶の水でも、もう少し忍んでくれるのではと思う。
 H食品は消費者向けの製品も作っており、そちらは食品卸売会社に出しているのだが、消費者向けはもともと薄利で、せいぜい収支トントンというところだった。そしてさらに、大手の卸売会社は機を見ては値下げを脅迫まがいに要求してくるため、経営資源をこちらに注いでも好転することは有り得ない。
 資金繰り表を見ると、良くて余命半年だろう。融資返済のリスケジュールは、すでに一度銀行に申し込んで受け入れてもらっている。再度のリスケを要請しているものの、応じてもらえるとはとうてい思えず、ほぼ万策尽きたという状態。

 私が事務所の所々へこんでいるアルミ扉を開け、なかを覗きながら、
「こんにちは、おじゃまします」と言ったが、そこには誰もいなかった。
 事務机がふたつに、棚にはまばらにファイルや書籍が積み上げられている。正面の壁の高いところには、漁船を背後に笑顔でピースサインをしている男の白黒写真が飾ってある。
「あ、どうも。先生」と背後から声を掛けられた。
 振り返ると、胸の位置まであるゴム長靴を履いたH社長が居た。
「こんにちは、前に言ってたもの、作ってまいりました」
 私は手持ちの黒い鞄から資料を出したが、濡れた軍手を付けているH社長にそれを渡すわけにはいかないので、事務所に上がり事務机の上に置いた。
 それは銀行に提出するH食品経営再建計画書で、再来年三月期以降の黒字化を見込んでいる。画餅であることは、作成した私が誰よりも知っている。仮に、親族以外の従業員を全て解雇したとしても、黒字化の見通しは立たないのだ。
「だいじょうぶですかね? 銀行は首を縦に振ってくれるじゃろか」H社長が疲れ切った表情で言う。
 私は答えに窮した。
 これまでは悲観論を唱えることは努めて控えていたが、これ以上根拠のない楽観論を重ねるのは、却って不誠実だという気がした。
「だいじょうぶですよ。もし蹴られても、また別の方法を考えましょう」
 しかし私の口を衝いて出たのは、そんな言葉だった。私は自分をダメだと思った。

 広域農道を運転して帰りながら、道の脇にひとつの看板を見つけた。
 自動車を路肩に停車して、降りてみると、

「無天山 登山道入り口」

 木製のずいぶん古い看板だった。三十センチほどの長方形の板に文字が彫られて、白いペンキで着色してあるようだったが、ペンキはほとんど剥げている。どうやら誰かの手作りのものなので、役所や自治会などが作った公式の看板ではあるまい。
 この道は何往復もしているにも関わらず、こんなものがあることは気づかなかった。
 看板の指し示す先を見てみると、幅三メートルに満たないほどのコンクリート舗装の道になっており、その左右は背の低い広葉樹がまばらに立っている。
 私は登山を趣味にしているわけではない。登山靴やトレッキングポールなどの装備品は所有していない。しかし二か月に三度くらいの割合ではあるが、標高400メートルに満たない最寄りの低山へ、運動不足解消のために普段着の軽装で登ることにしている。
 この無天山、読み方は「むてんやま」なのか「むてんざん」なのかわからないし、どれほどの標高なのかもわからないが、この近辺でもっとも高い山でも標高八百メートルにもならないので、それより高いということはないだろう。
 じゅうぶん日帰りで登って降りられる。


 実際その山に登ったのは、看板を発見してから二か月ほど経過した日曜日だった。
 農道は車通りは少ないとはいえ路肩も狭いので、登山道入り口まで車で行くわけにはいかない。私はリュックを背負い、Tシャツとハーフパンツにスニーカーという姿で、たまにしか乗らないロードバイクにまたがってそこまで行った。
 ロードバイクを登山道入り口近くの擁壁にもたせかけ、施錠した。リュックの中には、水が入った一リットルのペットボトルとスマホと財布のみが入っている。
 コンクリート舗装の登山口を入り、五分も歩くと一面緑の竹林となった。舗装路には竹の葉が散らばっていたが、平行して竹の葉のない線が車のわだちの形で通っている。どうやらこの道を車が通ることもあるようだ。
 間もなく竹林を抜けると視界が開けて、舗装路はみかん畑の真ん中を通るようになった。先ほどのわだちは、この農地の所有者が作業するために軽トラに乗ってやってきているのだろう。
 みかんの樹は背が低く、無数の肉厚の葉が光を反射させて、まぶしいくらいに明るい。私はリュックからペットボトルを取り出して、水を二口飲んだ。
 みかん畑を進むと舗装路は終点となり、そこから先は杉林になっていた。地面は黒に近い焦げ茶色の土で、踏むと少しやわらかい。
 歩いて行くごとに杉は密度を増し、視界は暗くなっていく。道の斜度もきつくなり、自分が山に登っているということを再確認する。

 そのまま三十分ほど歩き続けただろうか。道は荒れて雑草が濃くしげるようになり、足首に葉が絡む。私はハーフパンツを履いてきたことを少し後悔した。
 平地を歩くスピードは平均するとだいたい時速四キロから六キロだが、斜面を登るときはせいぜい二キロほど。ということは私は登山道をまだ一キロしか進んでいない。にもかかわらず、息を切らしてそこに座り込んでしまった。ペットボトルを再び取り出し、また水を飲む。
 なぜ私はこの山に登ろうなどと思ったのだろう。頂上まではあとどれくらいなのだろう。いつも登っている山ならは、あと何分で到着というのがほぼ正確に掴めるし、だからこそ途中でしんどくなっても頑張って登ろうという気にもなるが、初めて登る山となれば、まったく想像もつかない。手探りのしようもない。
 H食品にはあれから三度訪問した。当然のことながらリスケの要請は若造の銀行員にあっさり蹴られた。命運尽きたということが確定した。
 H社長はそれでも、明日から急激に売り上げが回復するかもしれないという奇跡を念じて、仕事を続けている。
 私はこれまでに三回、顧問先企業の倒産(正確には裁判所へ破産申請)という不幸を経験した。もちろん顧問である私の責任極めて大なのだが、こればかりはいかんともしがたい。
 私はその三回の経験で、もうダメだというところまで陥ったら、素早く破産しなければならないということを学んだ。というのも、会社が傾いた社長というのはそれでも諦めきれずに、親族にカネを借りてまわったり、取引先に融通手形を依頼したり、最悪の場合は闇金で借りたカネを銀行融資の返済に当てたりする。
 もちろんそんなことをしても一発逆転が叶うはずもない。いたずらに人間関係を悪化させ、人徳を失い、債権債務関係をややこしくし、再出発を難しくするだけだ。
 私は私がH社長に言わなければならない言葉を知っている。「もう、諦めましょう」と。
 本来ならば、前回もしくは前々回に訪問したときに言わなければならない言葉だった。
 しかしその言葉を発した瞬間、私はH社長に裏切り者扱いされることになる。先代から受け継いだ会社をギリギリなんとかしようとしている瀬戸際で、倒産の選択を迫る私の姿が、H社長の目に敵以外の何者に見える余地があろうか。
 私は立ち上がり、リュックを背負って山登りを再開した。
 二十歩ほど歩くと、木の合間におそらくイノシシ用の箱罠らしきものが設置してあるのを見つけた。

 永遠に続くかと思われた杉林はいきなり絶えて、山の尾根になっている部分に出た。目指すべき頂上が、すぐ百メートルほど向こうに見えている。私は大きなため息を吐いた。時計を見ると、登り始めた時刻からおよそ七十分を過ぎていた。
 頂上にいたる最後の坂は石段になっていた。そしてそれを登りきると、二百坪ほどの平地になっており、平地の真ん中には小さな木造の建物があった。それが神様を祀っている社《やしろ》であることは一目で理解した。
 社の手前には、一枚の看板がある。
 私はリュックからスマホを取り出して、GPSソフトを起動させた。ソフトが素早く現在地の標高を計測する。五五六メートルという表示が出た。
 山の頂上から景色を見下ろす。
 先ほど通り抜けてきた杉林が苔のように山肌に貼り付いていて、遠くに細く広域農道が見える。その向こう側はまばらに戸建てが散らばっている農村地帯になっていて、そして果てには扇形の青い海が広がっている。海と陸の境界線には、私が通ることを避けている国道があり、白いガードレールが蜘蛛の糸のように見えた。
 振り返って、社を見る。
 それは小さな「祠」とでもいうべきだろうか。おそらく建坪は畳四枚分くらいで、高さも私の身長よりも少し高い程度。社名のようなものは見当たらず、ただ正面の頭上に古びた注連縄があり、その下に賽銭箱があった。
 私は看板の正面に移動した。木製の看板はまだ新しいようで、木がそれほど黒ずんでいない。
 そこには、次のようなことが毛筆で書かれていた。


  無天山城跡

 この城は伊予河野氏の流れを汲む加藤大和守友信が白河天皇の頃に当村を領地として拝領し、築城したものである。本丸・二ノ丸の他、隣接する仙天山を支城に構え、五百有余年に渡り繁栄せるも、天正十三年、十六代加藤友吉は豊臣秀吉傘下小早川隆景の侵攻を受けた。
 小早川及びその先鋒来島通総の猛攻凌ぎ難く、刀折れ矢尽き、城主友吉残兵十九名と共にこの地にて自刃し落城した。
 友吉は自刃に先立ち、僧に赤子の嫡男を託し落ち延びさせたと伝えられる。

城主後裔 建立


 私はそれを読んで、あらためてまわりを見渡し、少し拍子抜けした。
 山頂は広い空間になってはいるが、城の名残りとなるものは何も残っていない。石垣もなければ土塀もない。社とこの看板以外は、ただ雑草が生えているのみ。
 ここに本当に城があったのだろうか。
 もちろん私は、天下統一を成した豊臣秀吉の大事業については、学校の授業で習って知っている。また、この近辺の有力な土豪が、破竹の勢いの秀吉軍によりあっけなく制圧されたということも、郷土史のひとつとして知っている。
 しかし、こうして実際に落とされた城に来てみると、歴史というものが身近なものなのか、それとも遠い出来事なのか、遠近感が混乱するようで、なんとも不思議な気持ちになった。
 四百年以上前にこの場で腹を切ったという城主とその家臣たちは、どのような心境だったのだろうか。最期に、どんな景色を見たのだろうか。
 落城が必至ならば、早々と降伏するという選択肢は有り得なかったのだろうか。
 いろんな疑問が湧いて来るが、答えを知ることはできない。ただ、彼らが切腹するにあたって、やるだけはやったという満足を得ていてほしいと思った。
 気が付けば持ってきたペットボトルは空になっていた。
 私は賽銭箱に百円玉を一枚入れ、合掌した。
 生きている私は、山に登った後は下りなければならない。登りに七十分を要したならば、その半分くらいの時間で農道まで戻れるだろうか。


最後までお読みいただきありがとうございます。